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原文&現代語訳『栄華物語』にみる「寛和の変」

「寛和の変」の資料については、
①藤原実資の日記『小右記』
②『日本紀略』
③歴史物語『大鏡』
④歴史物語『栄華物語』
⑤慈円『愚管抄』
⑥仮名草子『安倍晴明物語』(『安倍晴明記』『晴明物語』とも)
がある。

 期待できるのは①である。(藤原実資は、花山天皇の出家後、花山天皇の女御・婉子女王(えんし/つやこじょおう)を娶っている。)
 『小右記』は天元5年(982年)~長元5年(1032年)が現存するが、寛和2年(986年)の日記は、内閣本に唯一7月16日と8月16日の記事があるだけで、他の写本には掲載されておらず、「寛和の変」(6月23日)の実態が分からない。『小右記』の「寛和の変」については、
・最初から書かれていない。
・書かれたが、藤原摂関家によって掲載巻を焼却された。
・書かれたが、未発見。(内閣本の記事は他の本の跋文で加筆か?)
さて、どれでしょう?
 そういえば、『吾妻鑑』も源頼朝の死とその前後が欠落している。最も肝心な部分なのに・・・。

②は他の記事に全文を載せておいたが、要点のみで短い。
③と④は物語であるので、参考程度。
⑤は③や④に自分の意見を加えた感じ。
⑥の「花山院の御遁世をしる事」の前半は『大鏡』「六十五代(花山天皇)」、後半は『後漢書』「逸民列伝」「厳光伝」)が元になっている。

 さて、宮中の怪事件を、『光る君へ』では、陰陽師・安倍晴明が「成仏できない藤原忯子の霊の仕業」としていますが、『栄華物語』では、「藤原元方の悪霊」とするなど、『栄華物語』とドラマとでは相違点があります。

※藤原元方:「怨霊となって師輔や冷泉天皇、さらにはその子孫にまで祟ったと噂された。とりわけ、冷泉天皇の精神病や三条天皇の眼病の際には、その影響が人々に意識されたという」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 なお、藤原忯子については(お腹の子を殺した)罪深い女であり、花山天皇は「妻子珍宝及王位」と口ずさんでは、藤原忯子の死を受け入れようと努めると同時に、藤原忯子の罪を軽くしてあげる方法を模索していたとあります。

※「妻子珍宝及王位(さいしちんはうきふわうゐ)臨命終時不随者(りんみやうじゆうじふずゐしや)」:妻子、珍しい宝、王位も、臨終の時には、その人に従って来るものではない(死後の世界へ持っていくことは出来ない)。(『大方等大集経』巻第16)
 浅井良意による仮名草子『安倍晴明物語』(『安倍晴明記』『晴明物語』とも)では、花山天皇は、藤原道兼の扇に書いてあったこの言葉を読んで出家を決意したとする。

 花山天皇は常々「出家したい」と言っており、出家されたら困る太政大臣・藤原頼忠と中納言・藤原義懐は、花山天皇に見張りを付けていたそうです。よく宮中から脱出できたのものです。『光る君へ』では、女装させ、女性用の牛車に乗せました(あれは笑うべきシーン?)。『愚管抄』では、道案内なのか、「花山の厳久阿闍梨」も牛車に乗って同行したとあります。


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