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源実朝は北条氏の傀儡か? 名君か?  -『六代勝事記』と『沙石集』-

暗君=悪い政治を行う君主
凡君=何もしない盆暗な君主
名君=良い政治を行う君主

「源実朝は北条氏の傀儡で、政治活動を放棄して、和歌を詠んでいた凡君」
のイメージが強いが、当時の人々はどう思っていたのだろうか。
 

1.『六代勝事記』


 作者不明で、「承久の乱」直後に成立した歴史物語『六代勝事記』の源実朝の死亡記事には次の様にある。

正月廿七日。将軍右大臣兼左近衛大将源朝臣薨。右府、内には玄元氏の先実をならひ、外には黄石公が兵略をふる。執権十六年の間、春の露の情(なさ)け、草葉を潤し、夏の霜の恨み、折寒になす。一天風柔らかに、四海波立たず。

・玄元氏:老子。たとえば、源実朝が民の声を聞いたのは、「聖人無常心、以百姓心為心」(『老子』第49章)の教えによる。
・黄石公:中国の兵法書「六韜・三略」の『三略』は、太公望が書き、黄石公が選録したと伝えられ、『黄石公記』『黄石公三略』とも呼ばれる。ちなみに、源義経が用いたのは『六韜』である。
・春の露:冬に乾燥していた草葉が春の露でしっとりと潤うこと。
・夏の霜:夏の夜、月光が当たって、霜が降りたように見えること。
・一天四海:天下。

「1月27日、源実朝、薨去。源実朝は、内政には老子『老子』の教えに従い、外交には黄石公『三略』の兵法を奮った。源実朝が政権を担当した1203~1219年の16年間は、草葉が春の露でしっとりと潤い、実在しない夏の霜の恨みを諌めた。空を流れる風は柔らかで、海には波が立たなかった」と、在位期間は、天下に波風立たず、平穏無事な「この世の春」だったとする。

──この人、何言ってるの?

確かに『鎌倉殿の13人』のサブタイトルに「穏やかな一日」 とあるが、在位期間中(1203-1219)には、

1204 源頼家、暗殺さる。
1205 畠山重忠の乱:「武士の鑑」が謀反?
    牧氏の変:祖父・北条時政が謀反?
1213 泉親衡の乱
    和田合戦:最も信頼していた和田義盛が謀反?
1204 源実朝、暗殺さる。

等々、いろいろとあり、「穏やかな16年間」「天下泰平」とは言えないと思うぞ。
 想像するに、筆者が住む京都が、筆者にとっての「天下」であり、源実朝の時代の戦場は関東であって、京都は、『鎌倉殿の13人』の藤原兼子が言っていたように、1205年の平賀朝雅討伐戦は(京都で大軍勢が動くのは)、源義経の木曽義仲討伐戦以来のことであり、その平賀朝雅討伐戦は1日で終わったので、「京都(天下)は平穏無事だった」ということなのであろう。『六代勝事記』が書かれたのが「承久の乱」直後なだけに、「承久の乱」を思うと、「源実朝の時代はよかった」という回顧が含まれているのであろう。

 源実朝の人柄については、

家は夜半の時雨(しぐれ)の漏らざれば葺かず。襖(ふすま)はあか月の嵐の隙間を拒(ふせ)ぐばかり也。倹なる者を進め、奢なる者を退(しりぞ)けられし

・あか月:暁。太陽の昇る前の仄暗い頃。 夜半から夜が明ける頃までの推移を「あかつき(暁)」「しののめ(東雲)」「あけぼの(曙)」と区分した。

「住む家は夜半に時雨ても雨漏りしないので、新たに葺かず、襖は暁の嵐の時の隙間風を防ぐ程度で、(源頼朝は忠なる者を採用し、不忠な者を退けたが、源実朝は)倹約する者を採用し、贅沢な者を退けた」とする。
 確かに大倉御所は、源頼朝が1180年に建てたので、老朽化していたかもしれないが(1191年3月の「鎌倉大火」により、源頼朝は7月に新邸に移っているが)、源実朝は、(「和田合戦」で大倉御所が焼けたので)1213年に新造御所に移っている。

※『六代勝事記』(ろくだいしょうじき):高倉天皇~後堀河天皇の6代に起きた「勝事」(人を驚かす大事件)をまとめた編年体の歴史物語。

※参考記事
・「六代勝事記-私的まとめ - 龍馬堂」
http://ryomado.in.coocan.jp/Siji/SJclassic/Rdsjk/siji_rdsjk01-01.html

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