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わが主君の身がわりとげし笠井肥後

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寒狭峡(出沢の橋詰桟橋跡)には、
・鵜の首をわたりて押し出す武田勢
・わが主君の身がわりとげし笠井肥後
の2つの「かるた看板」があります。

鵜の首をわたりて押し出す武田勢


 鵜(う)という鳥は、頭が大きく首が細い。下の地図を見て分かるように、狭かった川幅が一気に広くなった場合、狭い部分を鵜の首、広い部分(出沢では「大渕」という。地質学的には滝壺の跡だという)を鵜の頭になぞらえます。

 「鵜の首をわたりて押し出す武田勢」というのは、武田軍がこの細い鵜の首に橋を架けて寒狭川(豊川)を渡り、設楽原に布陣したという意味ですが、これは、「鵜の首をわたりて引き去る武田勢」の間違いですね。

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 武田軍の本陣は医王寺山で、寒狭川(豊川)を渡り、清井田に布陣しました。医王寺山も、清井田も下流です。長篠城付近の「鵜ノ口」と「鵜ノ首」を混同しているのでしょう。

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わが主君の身がわりとげし笠井肥後

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 「橋詰殿(しんがり)戦場」碑と注意書き。

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 橋詰桟橋(丸太橋)跡。岩の窪みに橋脚を立てたという。

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 天正3年5月21日長篠の役設楽原の合戦は武田方に利なく日が西に傾くにつれ武田方は殿戦へと押されていった。
 ここ橋詰において笠井肥後守は勝頼の馬が疲弊したのを知るや己が馬を無理に勝頼に勧めて之を立退かせ、自らはこの地に於いて徳川軍をくい止め壮烈な討死をした。

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天正3年(1575年)5月21日、長篠設楽原合戦の武田方敗走のとき、武田家旗本笠井肥後守満秀は主君に自分の乗馬を譲り自らは我こそは勝頼と名乗って、瀧川郷の領主で織田方に属する瀧川源右衛門助義と組討ち、差違えて戦死したのがここ橋詰、猿橋の地である。
■『長篠日記』
 勝頼、取りて、腰に挟み退き給ふ。初鹿、此の使ひに歩む内に、勝頼、御馬を留めらる。其の節、馬、草臥(くたびれ)動かず。之に依り、初鹿、声を掛けて進めれども歩まず。
 然る処に笠井肥後と申す者は、信玄公の御代に従い、御旗本において指折りの剛の武者なり。勝頼の御馬、進まずを見て、急ぎ馬より飛び下りて、「是に召し候へ」と申し上げる。勝頼公仰せに「左候ては、其の方、討ち死に有るべし」とて乗り給はず。肥後守、「命は義に依て軽し。恩に為し奉る我等、倅を御取り立て下され候へ」と申し上げ、我が馬に屋形を乗せ奉り、肥後守は屋形の馬の手綱を取り、押し戴き、打ち乗りて後へ1町程取て返し、追ひ来る大軍に渡り合ひ、数多く切り捨て討ち死にす。彼、肥後守が心底を感じざる者は無し。

 武田勝頼は、母衣を取って、腰に挟み、退却した。初鹿野伝右衛門昌久(正備)が、この使者(典厩(武田信豊)の家老・青山尾張守信時)に向って歩いていく内に、武田勝頼が馬をとめた。この時、馬は、疲れて動かなくなったのである。それで初鹿野昌久が声を掛けたが、動かなかった。
 こうした時、笠井肥後守満秀(高利。武田信玄の代に武田家家臣となり、旗本として、指折りの剛将)は、武田勝頼の馬が動かないのを見て、すぐに馬から飛び降りて、「この馬に乗ってください」と武田勝頼に言った。武田勝頼は、「それでは、その方が討たれてしまう」と言って乗らなかった。笠井満秀は、「命は義よりも軽い。我が使命は主君の恩に報いることである。どうか息子・笠井慶秀を御取り立て下さい」と言い、自分の馬に武田勝頼を乗せ、笠井満秀は武田勝頼の馬の手綱を取って押し、乗って後へ1町程(「橋詰さんばし跡」碑から「橋詰殿戦場」碑まで)引き返し、(「我こそは、武田勝頼なり」と名乗ると、)敵兵は(馬を見て武田勝頼だと思い込み、)大勢戦いを挑んだ。数多くの敵兵を斬り捨てたが、出沢の郷士・滝川源右衛門助義と一騎打ちとなり、遂に討たれた。この笠井満秀の話を聞いて感動しない者はいない。

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 久沢山広釈寺(江戸時代から龍泉寺。愛知県新城市出沢的場田)の「笠井肥後守満秀之墓」と「長篠合戦戦没人馬之霊供養塔」。
 笠井満秀の戒名は「誠忠院珠光満秀大禅定門」であり、馬場美濃守信春の戒名「乾叟自元居士」「龍嶽院殿大法寿山居士」より格上である。(「満秀」は戒名であり、実名(俗名)は「高利」だという。)


※笠井満秀(高利):南朝遺臣(新田義貞の配下)の笠井氏の居城は、天竜川の西の河西(かさい。現在の表記は「笠井」)の笠井城(静岡県浜松市東区笠井町の御殿山稲荷)である。笠井氏の本貫地は下総国葛飾郡葛西庄で、浜松市の笠井町は経由地であって、室町時代に来住したという。
 無量山定明寺(静岡県浜松市東区笠井町)は、長禄2年(1458年)に笠井満秀の父・笠井定明の開基だという。

 小山田高家…笠井備後守⑪定明─笠井肥後守⑫満秀(高利)─笠井⑬慶秀

【後日談】 この話を聞いて感動した井伊直政は、「関ケ原の戦い」後、「父の佳名、今に朽ちず」と、大谷吉継の家臣であった笠井満秀の子・笠井慶秀を家臣にしたという。(笠井家の子孫は高松松平家に仕えたというが、御子孫の笠井和政氏は静岡県富士宮市在住である。)

【参考文献】
・笠井重治『笠井家哀悼録』1935年
浜松市に関する資料

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