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第7回の再放送を観た。

1.「醍醐禅師」こと阿野全成登場!


 「平治の乱」で父・源義朝の敗死後、三男・源頼朝は伊豆に流され、七男(源頼朝の異母弟)・全成は醍醐寺で出家させられ、九男(全成と同母)・源義経は鞍馬寺に預けられた。
 全成は、治承4年(1180年)、「以仁王の令旨」が出されたことを知ると、密かに醍醐寺を抜け出し、修行僧に扮して東国に下り、10月1日、下総国鷺沼(習志野市鷺沼)の宿所で異母兄・源頼朝と対面した。

━━ところで、阿野全成ってこんなにもヒョウキンな人だったの?

「九字護身法」(「臨兵闘者 皆陣列在前(「臨む兵、闘う者、皆、陣列べて前に在り」)急急如律令(急々に律令の如くに行え)」)は、あんなオーバーアクションではなく、印を結ぶだけだと思うぞ。

 さて、9月2日、北条政子は、伊豆山神社から秋戸郷へ移っています。その理由は不明ですが、「伊豆山神社の僧兵に襲われたから」はありかな?
僧兵に襲われて、
・子供(大姫)は逃げられたか?
・身重の牧の方は逃げられたか?
・こういう場合、逃げる場所を決めていたか?
と様々な疑問があるが、そこはドラマということで。
 『鎌倉殿の13人』では、伊東八重が、「北条政子は、伊豆山神社に隠れている」と見抜き、「源頼朝が夢枕に立った。源頼朝は生きている」と伝えに行っています。当然、平家の追討軍(伊東祐親隊)も北条政子の居場所を見抜いたことでしょうから、秋戸郷へ移ったのでしょう。

■秋戸郷(現地案内板) 
 この地は、北条政子が平氏の手より隠れ逃れた場所で、秋戸郷と言われています。
 治承四年(一一八〇)八月二十三日、源頼朝は石橋山合戦に挙兵しましたが、戦に敗れて安房に逃れました。この間政子は、走湯山に身をひそめて頼朝の安否を気づかっていました。
 九月二日、政子は、伊豆山権現の別当文陽房覚淵の計らいで密かに熱海の秋戸郷(阿伎戸郷とも書く)に移されました。
 秋戸郷は足川を南の境とする走湯山の神域の東南隅にあり、浜の方からしか入れないうえ、船着場も近く、神域を後ろ楯に覚淵の保護も行き届き、平氏方の捜索をくらませることができました。
 その日のうちに土肥実平の子遠平が、頼朝が安房に逃れるまでの経過を知らされたが、頼朝が船に乗ってからの事は分からないので、その夜の秋戸郷には喜びも悲しみも出る道がなかったのでしょう。
 この年の十月七日、頼朝は鎌倉に入り、秋戸郷をたった政子は、十二日、頼朝との再会を喜びあったと思われます。
                  「吾妻鏡」「熱海市史」他より
https://bushinokuni-shizuoka.jp/index_area/atami/

「秋戸」は「秋氏(安芸氏)の家がある場所」の意で、秋氏(安芸氏)は伊豆山神社の神官だという。また、中世の資料には「阿伎戸(あきど)」としても登場する。「伎部人」(渡来人、秦氏)の里なのか?

「源頼朝は罪人で、その妻子も罪人」というのは常識だった?
堤館の襲撃で活躍した佐々木兄弟は、「平治の乱」以降、20年間、相模国高座郡渋谷荘の渋谷重国の屋敷に居候していた。「石橋山の戦い」後の8月26日、大庭景親が渋谷重国の屋敷に来たが、佐々木兄弟は箱根山に隠れていて、渋谷重国の屋敷には帰っていなかったので、大庭景親は佐々木兄弟の妻子を捕らえるよう渋谷重国に要請したが、「伏理」(論理的に説き伏せられて)退散したという。(この時の大庭景親について『吾妻鏡』には、「景親、乍爲源家譜代御家人、今度、於所々奉射之次第、一旦匪守平氏命、造意企已似有別儀。但、令一味彼凶徒之輩者、武藏、相摸住人許也。其内。於三浦、中村者、今在御共。然者、景親謀計、有何事哉之由、有其沙汰。(大庭景親は源家譜代の御家人なのに、今回、あちらこちらで源氏に弓を引いた事は、一応、平家の命令に従っているように見えるが、それだけではなく、悪事を企てているようである。ただし、彼に荷担しているのは武蔵国と相模国に住む武士だけである。その内の三浦党と中村党は、今ここに(源頼朝に)お供している。であれば、「大庭景親の謀(はかりごと)は、何事あらん(たいしたことは無い)」と判断された)とある。何をたくらんでいたのだろう? 大庭景親の兄・大庭景義は源氏方であった。これは、源氏と平家で争い、どちらが負けても大庭家を存続させる手段だったとされる。ただ、大庭景親が捕らえられ、源頼朝から「大庭景親の助命嘆願をするか」と打診された大庭景義は断り、全てを源頼朝の裁断に任せている。 )

2.千葉常胤が居眠り?


 『吾妻鏡』では、千葉常胤が9月9日条と9月17日条に登場する。

■『吾妻鏡』「治承四年(1180年)9月9日」条
治承四年九月大九日戊午。盛長自千葉歸參申云。「至常胤之門前、案内之處、不經幾程招請于客亭。常胤、兼以在彼座、子息・胤正、胤頼等在座傍。常胤、具雖聞盛長之所述、暫不發言、只如眠。而件兩息同音云。武衛興虎牙跡、鎭狼唳給、縡最初有其召、服應何及猶豫儀哉。早可被献領状之奉者。常胤云。心中領状更無異儀。令興源家中絶跡給之條、感涙遮眼、非言語之所覃也者
 其後、有盃酒次。當時、御居所非指要害地。又、非御曩跡。速可令出相摸國鎌倉給。常胤相率門客等。爲御迎可參向之由申之」。

(治承4年(1180年)9月9日。安達盛長が千葉常胤宅から帰参して言った。「千葉常胤の門前で案内(取次ぎ)を申し出た所、幾らも経たずに客亭(客用の建物)へ招かれた。千葉常胤(63歳)は兼ねてから(既に)主座に座っており、子の胤正(45歳)と胤頼が傍らに座っていた。千葉常胤は安達盛長の話を聞いていたが、暫く発言せず、眠っているかのようであった。そうしたところ、2人の子は異口同音に言った。武衛(源頼朝)が虎牙(こが。将軍や武官の異称。征夷大将軍、近衛府など)の跡を興し(再興し)、狼唳(ろうれい。狼の鳴き声。ここでは平家の横暴)を鎮める(出典『後漢書』)にあたり、最初に我が家を召集されたのに、応じるのに何の躊躇がありましょうや。父上、早く承諾の手紙を差し上げなさいませと。父・千葉常胤が言った。心中では、了承する事に何の異論も無い。源家の中絶を再興しようとは、感涙で目が塞がれ、言葉にならないのだと。
 その後、酒を振舞われた。その時に今居る所は、要害の地ではない。また、先祖ゆかりの地でもない。速やかに相模国鎌倉へ行かれるが良い。千葉常胤は、門客らを率いてお出迎えに参上しましょうと言った」と。)
■『吾妻鏡』「治承四年(1180年)9月17日」条
治承四年九月大十七日丙寅。不待廣常參入。令向下総國給。千葉介常胤相具子息・太郎胤正、次郎師常〔號相馬〕、三郎胤盛〔武石〕、四郎胤信〔大須賀〕、五郎胤道〔國分〕、六郎大夫胤頼〔東〕、嫡孫・小太郎成胤等參會于下總國府。從軍及三百餘騎也。常胤、先召覽囚人・千田判官代親政。次献駄餉。武衛令招常胤於座右給、「須以司馬爲父」之由被仰云々。

(治承4年(1180年)9月17日。(源頼朝は)上総広常の参向を待たず、下総国へ侵攻した。千葉常胤が息子の千葉胤正、相馬師常、武石胤盛、大須賀胤信、国分胤道、東胤頼、嫡孫の千葉成胤(なりたね)らを引き連れて、下総国の国府に参上した。従う兵は300騎である。千葉常胤は(国府の目代を討ち取り)捕虜の千田親政を見せた。次に弁当を献上した。源頼朝は、千葉常胤を座の右脇に呼び寄せて、「須(すべから)く司馬を以て父と為す」(当然なすべきこととして、千葉常胤を父とする)と言った。)

千葉常胤┬太郎胤正(千葉胤正)━千葉成胤
    ├次郎師常(相馬師常。『源平闘諍録』では八重姫の夫)
    ├三郎胤盛(武石胤盛)
    ├四郎胤信(大須賀胤信)
    ├五郎胤道(国分胤道)
    ├六郎胤頼(東胤頼)
    └園城寺日胤(『吾妻鏡』では源頼朝の祈祷僧)

 『鎌倉殿の13人』では、『吾妻鏡』9月9日条の「千葉常胤が居眠り?(実は泣いていた)」と9月17日条の「千葉常胤を父とする」を上手く組み合わせていた。突然「父とする」と言われても「?」であるが、
・千葉常胤が源頼朝に面会すると、父・源義朝の面影を見て泣いた。
  受けて
・私(源頼朝)には、そなたが父(源義朝)に見える。
と自然な流れになった。(そういえば、足利義昭が、織田信長のことを「御父」と呼んだのはなぜだ? まさか、御父=デウスではあるまい。)

 なお、『吾妻鏡』では、上掲のように、千葉常胤が「當時、御居所非指要害地。又、非御曩跡。速可令出相摸國鎌倉給。常胤相率門客等。爲御迎可參向」(ここ(下総国)は要害の地(自然の障害物があって守りやすい土地)でも、源氏ゆかりの地でもないので、(平家方の鎌倉党がうようよする)鎌倉へすぐに出て行きなさい。鎌倉へ行くのであれば、お供して鎌倉党を倒します」(意訳)と、「自分の領地(下総国)から出て、平家方の鎌倉党を倒して土地を奪って住みなさい」と言っているが、『鎌倉殿の13人』の源頼朝は、挙兵の前から鎌倉入りを目標としている。

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