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藤長庚『遠江古蹟図会』090「浜松犀ヶ峠」

■「犀ヶ崖」の名の由来
①【俗説】長期間の暴風雨で崩れて溝(ガリー、クーロアール、ルンゼ)が出来、犀(サイ)という動物が出てきたので「犀ヶ崖」という。ただし「犀」を見た人はいない。ちなみに、地名は「鹿谷(しかたに)」である。
②「佐韋(さい)」はヤマユリ、「佐伊多津万(さいたづま)」はイタドリの古称。「さいが崖」は、ヤマユリ、もしくは、イタドリが群生する崖。
③【新説】引馬宿の「西の崖」。
④賽の神(塞の神)が祀られていたので「賽(塞)ヶ崖」。
⑤民俗学方面からは「サイ」は「賽銭」「賽の河原」のように「神に返す」ことを意味していることがあるらしい。この意味からすれば「犀ケ崖」も「死者を神に返す場所」という意味合いがあるのではないだろうか。(会田文彬『浜松風土記』)
⑥【Reco説】「坂井(さかい)」→「さい」で、湧き水が流れ出している崖。この湧き水で水蝕の溝が出来たり、崩れたりした。

※付近の地形は、浜松平野(天竜川の沖積平野)が河岸段丘に湾入した「谷」と「山」(侵食されていない部分)が南北に交互に連なる。北から池川谷(いけがわだに)、亀井山、鹿谷、明光寺山(みょうこうじやま)、作左(さくざ)谷(「作左深谷」「深谷」とも)という。現在、作左谷(戦国時代は空堀、一時水堀)は、芝生広場になっているが、以前は市営プール(中田島海岸の南区江之島町に移転。さらに古橋廣之進記念浜松市総合水泳場「ToBiO」を建設)があった。

■「名残(なごり)」「名栗(なぐり)」の由来
「所以号「名残」は、古老曰く、「昔、築山御前生害の期、此の地に至り、「名残惜し」と曰ふ故、曰く「名残」」。今人誤りて「名栗」と云ふ」(内山真竜『遠江国風土記伝』)。西来院に住んでいた時のことを思い出したのだという。

天正7年8月29日徳川家康の正室築山御前が小薮村で殺される時に、此所まで來て
かねての覺吾じや、いざ斬つてたもれ。
と紅の下衣の上に黄の縞衣を着た姿を靜かに座ると、
上意とは申せ御台様の首掻く刄はござりませぬ。
と家康の侍達は泣いて折らなかった。佐鳴湖の岸邊へ着いてからも、皆ためらって誰一人斬る者がないので築山御前は
さらば妾、自らせん。
と手早く懐剣を咽に剌して打ち伏す所を、家康の家人野中三五郎定元が思い直して、後から
えいツ。
と首を刎ねた。斯く名殘を惜しんだ土地というので名残町と呼んだ。

会田文彬『浜松風土記』「亀山町」

 昔、名残町という町があった。信康の正室徳姫による父信長への信康悪行の訴えにより、家 康は信長から信康の切腹を命ぜられた。それを家康は受入れ、佐鳴湖畔で築山御前の命も 奪った。最後は家康の家来による介錯で亡くなった。名残という町名の由来は、その築山御前の主従が名残を惜しんだことから付けられたとのこと。

御手洗清『家康の愉快な伝説101話』

 「なぐり」は「なごり」の遠州弁だという。また、大きな栗の木があり、奈良官道の「栗原駅」があったからで、「今人誤りて「名栗」と云ふ」ではなく、「今人誤りて「名残」と云ふ」だという。

■「三方ヶ原の戦い」と「犀ヶ崖」
①「布橋の奇計」:「犀ヶ崖」に白い布(陣幕)をわたし、橋に見立てた。そうとも知らず押しかけた武田軍は、犀ヶ崖に落ちた。
・雪の夜の話。あたり一面真っ白。しかも夜だったので橋だと思った。
・「布橋」は白山神社の祭事だという。
・浜松城の名残口と三方原南端の追分を結ぶ道の西に普済寺、東が犀ヶ崖で、その奥が浜松城である。徳川軍は普済寺を焼き、浜松城が焼けたように見せた。武田軍は「西に浜松城はない。東に寄って進軍せよ」と指示したので犀ヶ崖に落ちた。
②陣幕説(『遠江古蹟図会』):陣幕を張り、その内部で提灯をかざした。武田軍は陣屋だと思い込んで突進し、犀ヶ崖に落ちた。
③墓地説(Reco説):「三方ヶ原の戦い」で不思議なのは、多数の戦死者の墓が無い事である。昔は「千人塚」が墓だと考えられていたが、現在は古墳時代の「千人塚古墳」であると判明している。死者の数が多すぎて、穴を掘るのが大変で「死体を犀ヶ崖に落とした」のを「兵が犀ヶ崖に落ちた」とごまかしたのではないだろうか? その罪悪感から亡霊のうめき声が聞こえたのでは?
 墓地であれば、「賽の河原」に見立てて「賽の崖」→「犀ヶ崖」か?

 民俗学方面からは「サイ」は「賽銭」「賽の河原」のように「神に返す」ことを意味していることがあるらしい。この意味からすれば「犀ケ崖」も「死者を神に返す場所」という意味合いがあるのではないだろうか。
 現在犀ケ崖とその下流の崖勾配は、市内の台地周辺のどこにも見られず、自然のものとは考えにくい。
 下流には「硝煙蔵=火薬庫」があったことが、地名から分かる。幕府の硝煙蔵は、いざという時には上流の堤を切ると水没する仕掛けになっていたことが、東京都北区滝野川の硝煙蔵にも見られる。

会田文彬『浜松風土記』

■「遠州大念仏」
 ①「犀ヶ崖」で亡霊のうめき声が聞こえ、②イナゴ(稲の害虫)が大量発生したことから、宗円が念仏を始めたという。村人も参加し「大念仏」となった。
・この「大念仏」が行われたのは、川西(天竜川の西。浜松平野)の北部である。「三方ヶ原の戦いは無かった説」とは、「三方ヶ原の戦い」は、三方原で行われたのではなく、「大念仏」が行われた地域(三方原と武田軍本陣・合代島の間。浜松平野北部)で行われたとする説である。
・浜松人は普段は温厚であるが、この「大念仏」の時だけ人が変わり、多くの死傷者が出たので、中止命令が出されたという。今でも浜松人は、「浜松まつり」の「激練」(超激しいおしくらまんじゅう)の時だけ人が変わる。(閉鎖空間では行わないので、韓国のように死傷者は出ない(2022年、韓国ソウルの繁華街・梨泰院(イテウォン)でハロウィーンのために集まった群衆が転倒し、158人が圧死した)。)
・宗円堂は解体され、犀ヶ崖資料館(静岡県浜松市中区鹿谷町)が新設された。

藤長庚『遠江古蹟図会』

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