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藤長庚『遠江古蹟図会』001「牛鼻之詠歌」

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「牛の鼻」は、現在は「獅子ヶ鼻」と呼ばれています。確かに、大地震で鼻が欠けて、牛よりも獅子に似たとは思いますが、変えたら弘法大師に失礼でしょ? (個人的には「牛岩」がいいと思う。)

 現在は公園として整備されています。(最近、行っていないので、この記事の写真は、昔の物です。ちなみに、上の写真は「獅子トイレ」です。)

■獅子ヶ鼻公園
https://www.city.iwata.shizuoka.jp/shisetsu_guide/koen_shisetsu/kouen/1003377.html

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今の御時世、「光と風 輝く少年の森」なんて言ったら「少女はどうなの?」と突っ込まれそう。

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向いの展望広場。左下が「獅子ヶ鼻」。
 ──「獅子ヶ顔」だろ?
と突っ込みたくなる。

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「牛岩」の全身です。伏している牛(今は獅子だという)です。

 ──寝牛起馬(ねうしおきうま。牛は伏す事を、馬は立つ事を好む)

左の吊橋を渡って行きます。

項目名の「牛鼻之詠歌」とは、「『牛岩』と呼ばれる巨岩の『牛の鼻』に当たる部分に(弘法大師によって)刻まれた『うしのはな』と詠み込まれた和歌」という意味です。その和歌は、

   世をうし乃(の) 者奈(はな)見車に法のみち 
         ひ可(か)れてこゝ尓(に) 廻りき尓介(け)り

 よをうしのはなみくるまにほうのみちひかれてここにまはりきにけり

になります。
・「はなみくるまに」は「花見車に」と「鼻見来る間に」
・「みちひかれ」は「道引かれ」と「導かれ」と「満ち干かれ」
・「ひかれて」は「花見車に引かれて」の「引かれて」と「惹かれて」
の掛詞でしょう。
 歌意は、「牛に引かれて善光寺参り」じゃないけれど、「世を憂しと思い、仏に導かれて、ここ牛岩にやって来た」って感じかな?

■藤長庚『遠江古蹟図会(清書)』「牛鼻之詠歌」
 山梨より一里北、豊田郡岩室村に観音堂有り。当国巡礼札所なり。堂の後山の頂に「牛岩」有り。黒岩にして牛の伏したる形に似たり。およそ十間程長さ有り。その牛の鼻の所に、1首の歌を彫刻す。千里鏡にて見たる所、幽かに見え、往古より空海の筆ならびに歌と云い伝ふ。先年、宝暦年中、大地震してその牛の鼻の所岩欠けて落ち、山の半腹に立ち懸かり今に存在す。その場所に至る山険阻にして、木の根に取り付き下る。甚だ危うく難所なり。
 余、先年、栄信和尚同伴にてこの処に至る。長さ5尺ばかり、横3尺ばかりの岩に1首の歌有り。大師流とは見ゆれども、さのみ能書とも見えず。
 世をうしの はな見車に法のみち ひかれてここに 廻りきにけり
右の歌、短長に書きてあり。雪花墨を以て正面摺に模して帰りたり。空海の筆ともおもはるる事は、岩の歌有る場所、山の端下よりは数十間も有るべき処、書くには足代など掛くべき所に非ず。弘法大師、法力を以て空中に坐して居り書きたるかと思はる。大師ならでは外に有るまじ。尤も無名なれば、外人の書きしや不審。所の者云い伝えしまま、弘法の筆跡と云い来たれり。余、これをまた板行とし余国へも披露せしなり。今はその板木、周智郡下村西楽寺にあり。

【大意】 「日本全国『やまなし(山梨、月見里)』地名発祥地」の山梨(袋井市山梨地区)から北へ1里(4km)、豊田郡岩室村(磐田市岩室)に岩室観音堂(跡)がある。岩室観音は、「遠江三十三観音霊場」の9番礼札所であった。岩室観音堂の後ろの山の頂に「牛岩」がある。黒い岩なので、黒牛が伏した姿に似ていて、約10間(18m)である。その牛岩の鼻に当たる部分に和歌が1首彫られていた。望遠鏡で見ると、幽(かす)かに見える。この和歌は、昔から、空海(弘法大師)が詠んで書いた(彫った)と伝えられてきた。
 先年(1751年4月25日)の大地震で、その「牛の鼻」に当たる部分が欠けて落ちたが、山の中腹で引っかかって今も存在する。その場所に行く道なき道は、険しく、木の根を掴みながら斜面を下る。大変危険である。私は、先年、栄信和尚と共に、その場所へ行った。欠けて落ちた「牛の鼻」に当たる部分の大きさは、縦約5尺(150cm)、横約3尺(90cm)で、和歌が1首彫られていた。書風は大師流のようだが、達筆とは思われない。
 世をうしの はな見車に法のみち ひかれてここに 廻りきにけり
この歌が2行で書かれており、持ってきた墨と紙で拓本をとって持ち帰った。
 これが空海の書だと思われる理由であるが、この和歌が彫られていた場所は、下から数十間(数十m)の高い場所であり、足場も組める状況でもなかったので、空海が、法力を以て空中に浮かんで書いたと思われるからである。とはいえ和歌だけで、「空海」という署名がないので、他の人が彫ったのかも知れないが、地元の人達が「空海の書だ」と伝えている。
 私は拓本を元に版木を作成し、他国へも披露した。今、その版木は、周智郡下村(袋井市春岡)の西楽寺にある。

『遠江古蹟図会(稿本)』
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2538219/9

「足場を組めないので、空海が中に浮かんで彫った」というけれど、岩の上の松の木と自分の体、あるいは座椅子とを縄で結んで、上から降りて彫ったのでは?

■『豊岡物語』「衣かけの松」
 昔むかしのある日、夕もやのかかる頃、今の獅子ケ鼻公園の頂きの岩に、衣も色褪せて見るからに哀れな様相の僧がひとり腰を降ろしておりました。しばらくすると、僧はやおら立ち上がり、急な岩山を降り始めました。身の毛もよだつような絶壁を、あやうい足取りで降りて行き、突き出た大岩石までくると、今度はノミを取り出して岩に一心不乱に文字を刻み始めました。
世をうし乃
はな見車に法のみち
ひかれてここを
廻りきにけり
 刻み終わると、僧は頭上を覆う松の枝に身の衣をかけ、にっこりとほほえむと、いずこともなく消えていきました。やがて衣は朽ち果て、今はこの衣かけの松だけが、獅子ケ鼻公園にそびえています。
 かの僧は、弘法大師。八百八谷ある霊山をもとめて寺院建立をおこしましたが、獅子ケ鼻は一谷足らず心ひかれながらも下山し、その後、高野山に登ったと伝えられています。
■『岩室山和歌記』
遠江國周智郡巌室山者弘法大師開基而其岩之形如臥牛也。然大師真跡之和歌在于牛鼻焉。仰是聳崖萬丈非雲梯何書彫此耶思則佛陀権化之所作而異神巧妙於茲知之也。実依此奇郷里之人民云其地名於牛鼻焉。時寛保元辛酉年之春岩之牛鼻落萬尋之深谷也。雖然幸哉和歌向空而文字粲不損矣従寛保元酉年當寛政八甲辰迠経年五十有六也。見和歌在牛鼻里人至今存焉。亦遠境之緇素為令崇尊大之真跡釋榮信藤長庚等。謹繕寫而贈予依之為傳後世影銶于石而摺紙信施而巳。        維持寛政八甲辰年 遠江國 西樂寺 釋法印元宣

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 原本の絵は藤長庚本人が描いたそうです。写本については、絵が上手い写本と、下手な写本があります。

■「牛鼻之詠歌」史
①伏せた黒牛に似た「牛岩」の鼻に当たる岩肌に弘法大師が刻んだ。
②宝暦の大地震(1751年4月25日)で、その牛の鼻に当たる部分の岩が欠け、中腹まで落ちたが、和歌は確認できたので、藤長庚は、拓本を取った。
③藤長庚は、版木を作った。(拓本と版木は安養山西楽寺蔵)
④安政の大地震(1854年12月23日)で岩は完全に落ちた。
⑤大正2年(1913年)、修行者が拓本を元に岩に歌を刻んだ。←今ここ。

■安養山西楽寺
https://www.sairakuji.site/
・県指定文化財「阿弥陀三尊像」「薬師如来像」は、浜松市美術館の「みほとけのキセキ-遠州・三河の寺宝展-」(重要文化財を含む遠州国&三河国の仏像を中心に展示。 静岡県と愛知県の県境を跨ぐ三遠地域に焦点を当てた初の仏像展)に2021/03/25~2021/04/25まで出張中。「御仏の奇跡」というよりも、「浜松市美術館の快挙」。こんな仏像展は二度と開かれないかも?

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