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「十三人の合議制」の成立について(Reco説)

先日の『鎌倉殿の13人』「鎌倉殿と十三人」を見て疑問が残った。

学者の疑問は、
①なぜ『吾妻鏡』の4月12日の記事に突然13人が登場するのか?
②なぜ老練な宿老に混じって若い北条義時が入っているのか?
ということである。

先日の『鎌倉殿の13人』では、
①若き源頼家(18歳)を補佐するために、北条義時は文官4人と梶原景時の5人をつけようとしたが、北条氏と比企氏の権力闘争により、12人に膨れ上がってしまった。
②北条義時が「この12人に決まった」と北条政子に報告すると「叔父として側にいてあげて欲しい」と、補佐役に加わるよう嘆願された。
とした。
ようするに、
①最初から13人だったのではない。
②北条義時を加えたのは北条政子である。
とした。

「北条義時を加えたのは北条政子である」というのは流行なのか、今年5月に発行された山本みなみ『史伝 北条政子』(NHK出版新書)の帯に「「鎌倉殿の13人」を選んだのは政子だった?」とある。

先週、「但馬国の語源を何十年も研究している学者は、詳しく知りすぎて、未だに語源が分からずにいるが、私のような門外漢には『岡目八目』で分かってしまう」と書いた。この「鎌倉殿の13人」の成立についても同様で、半年前から鎌倉時代についての本を読み始めた門外漢の私には、
①最初から13人だった。
②北条義時を加えたのは北条時政である。
としか思えない。「なんで、数十年も研究している学者は気づかないんだろう?」と不思議に思う。

一応、私と同じ事を言っている学者がいるかどうか調べ、いなかったら、土曜日にReco説として発表しようと思う。


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