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柳田国男『山島民譚集』馬蹄石「池月 磨墨 太夫黒」

名馬「磨墨」について検索してみた。
生誕地が17ヶ所、墓所が5ヶ所ヒットした。
一体全体、いくつあるんだ?
長文なので、原文には無い小タイトル(地域区分)をつけてみた。

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 「名馬池月は、陸奧七戸立(しちのへだち。注:青森県上北郡七戸町)の馬にて、鹿笛(しゝぶえ)を金焼(注:焼印)に当てたる五歲の駒」云々と云ふことは、口拍子にも言ひ馴れたる「盛衰記」の本文なるに、妙に諸国に其の出生地と名乗る処、多し。今、試みに其数箇例を挙げんか。

(1)東北地方


 奧州三戸(青森県三戸郡三戸町)に在りては、池月は名久井嶽(注:青森県三戸郡南部町と青森県三戸郡三戸町に跨る名久井岳)の麓の牧、住谷野(すみやの)に於いて生まると云ふ。「嶽の頂きに池あり。竜あり、之に潛み住む。一夜、月明に乗じて、牧の駒、登りて、其水を飮み、忽ちに駿馬となる。仍て「池月」と名づく」云々(糠部五郡小史)。此の説は、最も古記の所伝に近きがごときも、其由来に、伝説の香、高きのみならず、磨墨、太夫黒、すべて、同じ牧の産なりと称するがごとき、寧ろ、比較を怠りたる地方学者の軽信なり。是れ、恐らくは、山に月山権現を勧請せし後の話にして、池と云ひ、名馬と云ふが為めに、乃ち、池月の名を推定せしならんのみ。
 羽後仙北郡南楢岡村大字木直(きつき。注:秋田県大仙市南外南楢岡)にては、池月は彼の地に生れたりと云へり。木直は古くは「木月」と書き、又、「七寸(しちき)」とも唱ふ。池月、生れ落ちて、其長(たけ)四尺七寸(よさかなゝき)ありし故とも云ひ、又、木月は「いきつき」の上略なりとも説明したり(月乃出羽路)。此の村に就きては、後に、猶一つの話あり。
 同国飽海(あくみ)郡日向(にちかう)村大字下黒川(注:山形県酒田市下黒川)に於いては、池月は此村の百姓与平なる者の先祖が献上する所と称す。村に一処の古池あり。往昔、此池より竜馬出でて、嘶き、与平が家の牝馬、之に感じて、池月を産むと云ふ。其母馬の塚は今も此地に残れり(三郡雑記上)。
 羽前南村山郡西郷村大字石曽根(注:山形県上山市石曽根)も亦、同じ名馬の故郷なりと伝へらる。此村の地、以前は大なる沼にして、竜蛇、之に住す。池月は、則ち、之を父として生れしなり。其後、沼の水、次第に乾き、今は小さき池となりて、名のみ、昔の「駒ケ池」と呼ぶと云ふ(山形県地誌提要)。
 岩代河沼(かはぬま)郡の谷地(やち)と云ふ村(注:福島県河沼郡会津坂下町(あいずばんげまち)三谷谷地(みたにやち))にも、之と似たる伝説ありき。村の羽黑神社の境内に、古くは四十八箇の沼あり。其最も大なるを「親沼」又は「竈沼(かまどぬま)」と云ふ。「竈沼」の主(ぬし)は、則ち、月毛の駒にして、名馬池月は其子なり。此因縁を以て、近世までも「此辺に牝馬を放牧すれば、往々、駿馬を得ることあり」と信ぜらる(新編会津風土記)。

(2)中部地方(日本海側)


 越後西蒲原郡岩室村大字樋曽(注:新潟県新潟市西蒲区岩室村樋曽)も亦、池月の生れたる地と称す(越後名寄三十一)。即ち、弥彦山(やひこさん)の麓なり。弥彦の神は、或いは特に駒形と縁故多き神なりしか、此山の北麓の米水浦(よねみづうら)にも「竃窟(かまどのいはや)」と云ふ洞ありて、霊泉、湧出す(地名辞書)。
 能登鹿島郡中之島村大字向田(注:石川県七尾市能登島向田町)と云ふ村の池に、昔、一頭の馬の、牧より出で来たりて住するあり。之れを、此の村の弥彦神社の神馬に献じたりしを、比類無き名馬なること、世に聞えて、終(つひ)に鎌倉殿に之を奉る。其折りの頼朝公の下文(くだしぶみ)及び梶原が添へ狀、共に判形(はんぎやう)ある者を村に伝ふるが、何よりの証拠なり。馬の名を「池好(いけずき)」と呼びしも、全く常に水辺を愛して住みし為めなりと云ふ(能登国名跡志)。而して此地は、疑ひも無く古代の「島の牧」なり。

(3)関東地方


 磨墨は、多数の故郷を併せ有する点に於ても、池月と容易に兄弟し難き馬なり。関東方面に於ては、此名馬の生れ在所と云ふもの、一つには、下野(しもつけ)上都賀(かみつが)郡東大蘆(ひがしおほあし)村大字引田(注:栃木県鹿沼市引田)なり。村を流るゝ大蘆川の摺墨淵の片岸に「釜穴」と称する入口八、九間の洞窟あり。磨墨は此洞より飛び出だせりと云ふことにて、岩の上に大きさ七、八寸、深さ一尺に近き蹄の痕ある外(ほか)に、村の長国寺の境内にも亦、一箇の馬蹄石ありて、其の名を駒留石と称したり(駿国雑志二十五)。
 同国安蘇郡飛駒(ひこま)村(注:栃木県佐野市飛駒町)は元は「彦間」と書けり。昔の牧の址なるを以て、今の字に改めしなるべし。土地の人の説にては、世に名高き池月、磨墨は、共に此地の出身なりと云ふ(山吹日記)。
 上総国にも、磨墨出でたりと伝ふる地、少なくも二処あり。其一つは、木更津の町に近き「畳池(たゝみいけ)」と云ふ池(注:千葉県木更津市朝日の畳ヶ池)、其二は、則ち、東海岸の夷隅郡布施村字硯(すずり)と云ふ地(注:千葉県いすみ市下布施)なり。硯にては高塚山と名づくる丘陵の頂上、僅かなる平に一本松の名木ある辺りを昔の牧の跡なりと伝へ、愛宕(あたご)を祀りたる小祠あり。此岡の中腹にも、やはり小さき池ありて、其水溜りの、如何なる旱魃にも涸れざるを、或は「磨墨の井」と称す。此地方の口碑に依れば、磨墨は此牧の駒なりしを、平広常、取りて鎌倉將軍に献上すと云へり(房総志科)。
 此より更に一日程の南方、安房の太海(ふとみ)村の簑岡(みのをか)と云ふ海辺の牧も、池月、磨墨の二駿を産せりと云ふ名誉を要求す。而して村の名にも池月村、磨墨村の称呼ありきと言へど、今日の字何に該当するか不明なり(十方菴遊歷雑記五篇下)。此海岸よりは、兎も角も、或る名馬を出せしことのみは事実なるがごとし。
 同じ太海村の大字太夫崎(注:千葉県鴨川市江見太夫崎)は、義経の愛馬「薄墨(うすずみ)」、一名を「太夫黒(たいふぐろ)」と云ふ駿足を出せしよりの地名なりと云ふ。岬の岸に不思議の巖窟あり。深黑、測るべからず。太夫黒は、則ち、其の洞より出でたりと云ひ、附近には硯とすべき多くの馬蹄石を産し、且つ、馬の神の信仰を保存せり(千葉県古事志)。一説に、頼朝、石橋山の一戦に敗れて此半島に落ち来たりし際、太夫黒を手に入れたり。後に此馬は、独り故郷に還り来たり。今も、かの洞の奥に住して不死なり。山麓の名馬川の岸より波打際にかけて、折々、駒の足跡の残れるを見るは、人こそ知らね、竜馬の胤(たね)の永く絶えざる証拠なりと云へり(遊歷雑記同上)。
 然るに、右の太夫黒は、古くは奧州の秀衡が義経に贈る所と称し、池月、磨墨と共に、南部三戸の「住谷(すみや)の牧」に産すること、同処の馬護神の天明元年の「祠堂記(しだうき)」に詳かなるに(糠部五郡小史)、或は又、越後北蒲原郡南浜村大字太夫浜(注:新潟県新潟市北区太夫浜)に生れたりと云ふ説あり(越後名寄三十一)。
 讚岐木田郡牟礼村(注:香川県高松市牟礼町牟礼)にては、此馬、終焉の古伝、碑文に依りて明白なり(讚岐案内)。
 結局、何(いづ)れが真実の話なるか、予は之を決し得ず。
 武藏には、固より、池月、磨墨の遺蹟と云ふもの甚だ多し。
 就中、西多摩郡調布村大字駒木野(注:東京都青梅市駒木町)の伝説に於ては、亦、池月、此国に産せしことを主張するなり。其説に依れば、駒木野は古くは「駒絹」と書けり。
 源平の頃に、村より西に当つて、多摩川の北岸、今の三田村大字沢井(注:東京都青梅市沢井)の地に「池田」と云ふ沼あり。或日、此沼の辺りより、一頭の駒、飛び出だし、今の吉野村大字日影和田(注:東京都青梅市和田町)と、同村大字畑中(注:東京都青梅市畑中)との境なる「駒牽沢」と云ふ処を過ぎて、駒木野の里まで馳せ来たりしを、村民等、網を以つて奔馬に蔽ひ掛けて、終に之れを捕へ、亦、鎌倉将軍家に献上す。後に高名の駿足「池月」と聞えたるは、即ち、此の馬のことなり(新編武蔵風土記稿)。
 「一匹の素絹(そけん)を引かせて、末が地に落ちぬ程に奔(は)せたり」と云ふ駿馬の話は、よく之を聞く。それを思ひ出ださしむべき昔物語なり。

(4)中部地方(太平洋側)


 伊豆の田方郡弦巻山(注:静岡県田方郡函南町の弦巻山)の中腹にも、池月、磨墨を野飼に育てたる話あり。磨墨、此の山に在りて高く嘶けば、池月は丹那村(注:静岡県田方郡函南町丹那)の山より遙かに声を合はせたりと云ふ。弦巻山の山中、其跡として「駒形」の地名あり、且つ、そこには駒形神を祀れり。祠の傍らに、別に一箇の立石ありて、衣冠騎馬の神像を刻すと云へば(日本山嶽志)、即ち前に挙げたる軽井沢の駒形権現と同じ物ならんか。
 駿河は普通に磨墨終焉の地として認めらるくゝが、猶、其西郡には彼が生れたりと云ふ家あり。即ち、安倍郡大川村大字栃沢(注:静岡県静岡市葵区栃沢)の旧家米沢氏にては、磨墨は此の家の厩に産れたりと傳へ、厩の地なりと云ふ大岩の上に、蹄の跡及び其駒を育てしと云ふ老女の下駄の歯の跡残れり。此村には、更に一箇の奇巖の面に無数の馬蹄の痕を印するものありて、里人、之れを崇拜す(駿国雑志二十五)。一説に栃沢村の民、五郞左衞門が厩に池月は生れたりと云ふは、同じ家の事にして、名馬の名のみ何れか誤聞なるべし。此家は又、昔、名僧聖一国師を産したり。「元亨釈書」の伝記に、国師の母、「手を挙げて明星を採ると夢みて孕む」とあるは、因縁なきにしもあらず(遊囊賸記)。尙、此より遠からざる久須美と云ふ村にも、磨墨の生地と称して、蹄の跡を印したる石ありと云ふ(駿国雑志)。
 飛騨国にては、池月は大野郡丹生川村(にぶかは)大字池俣(注:岐阜県高山市丹生川町池之俣)より出づと称す(飛州志)。池俣は乗鞍嶽西麓の村なり。恐らくは亦、神聖なる池ありしよりの村の名か。「乗鞍」と云ふ山の名も、或は又、馬の神と縁由ありしものならん。

(5)近畿地方


 池月は又、近江より出でたりとの説あり(越後名寄三十一)。犬上郡東甲良村大字池寺(注:滋賀県犬上郡甲良町池寺)は、古くは河原荘の内にして、大伽藍ありし地なり。名馬池月は、此の辺りに生る。池月は、即ち、「池寺月毛」を略したる名なり。而して磨墨は、同じ国伊香郡の摺墨郷(注:滋賀県長浜市余呉町摺墨)に於いて生れたるが故に其名あるなりと云へり(淡海木間攫(あふみこまざらへ))。
 伊勢鈴鹿郡庄内村大字三畑字鳩峯(注:三重県鈴鹿市三畑町)は亦、此地方にての池月出生地なり。同郡椿村大字小社(こやしろ)字牧久保に「駒爪石」あり。径(わたり)三尺ばかりの円石(まるいし)にして、中央に爪の痕に類する者、存す。池月、此の村にて育成せられし時、踏み立てたる跡なりと云ふ(伊勢名勝志)。
 然るに、程遠からぬ河芸(かはげ)郡河曲(かはわ)村大字山辺字内谷(注:三重県鈴鹿市山辺町)にも同じ伝説あり。「駒の淵」と称する、周囲五十間余の低地は、即ち、是れにして、以前、幕府の官吏、巡視の折り、之を承認し、「右大将源頼朝卿逸馬生唼出生之地」と云ふ標木を建てたることありと云ふ(同上所引勢陽雑記)。
 平蕪(へいぶ)遠く連なる河内の枚方(大阪府枚方市)のごとき土地に於いても、尙、池月は此の地に生れたりと云ふ口碑あれば(越後名寄所引寺島長安説)、神馬は誠に至らざる所無きなり。

(6)中国地方


 更に中国に在りては、「安芸山県郡原村大字西宗(注:広島県山県郡北広島町西宗)の四満津(しまづ)と云ふ処より、磨墨、出でたり」と称す(芸藩通志)。或は又、之を、池月なりとも云ふ。此村字淨土の「勇ケ松」、池月を此樹に繫ぎたりとて、古へより、其名、高く、神木として崇めらる(大日本老樹名木誌)。
 石見鹿足(かのあし)郡蔵木村大字田野原(注:島根県鹿足郡吉賀町田野原)に「早馬池」あり。池月、此辺りより出づと称す。元来、野馬にして、池水(いけみづ)を泳ぐこと、陸行(りくかう)のごとし。故に「池月」と称すと云ふ。此地は山中の別天地にして、総称して俗に「吉賀(よしが)」と呼べり。吉賀郷、もと、馬、無し。古今、唯、三名馬を産するのみ。磨墨は亦、其一つなりと伝ふ(吉賀記上)。
 但し、池月は、或いは、長門須佐(注:山口県萩市須佐)の甲山に生ると云ふ一説ある由にて、吉賀の故老は此一頭のみは、隣国の口碑に割讓するの意ありしがごとし(同上)。須佐は長門の東北隅にして石見と境する山村なれば、龍馬が来往して其本居を定め得ざりしものとも解するを得ん。
 而も、長門の通説に於いては、池月の生れたりしは、豊浦郡(山口県下関市豊浦)の御崎山(下関吉母)にして、懸け離れたる西隅の海岸なるのみならず、磨墨も亦、同じ牧の産なりと主張するなり(大日本老樹名木誌)。
 之と同時に、石見の邑智(おふち)郡出羽(いづは)村大字出羽(注:島根県邑智郡邑南町出羽)に於ても「馬影池」と云ふ池ありて、亦、「池月、此池より出づ」と伝ふ。出羽の池月は誠の竜の駒にて、常に我が影を池の水に映し、又、其池の水を飮めり(石見外記)。
 隱岐島(おきのしま)にては、周吉(すき)郡の東海岸、津居(つゐ)と云ふ里に、「牡池」「牝池」の二つの池(注:島根県隠岐郡隠岐の島町飯田)あり。池の深さは、測り知り難く、岸辺の石は、墨のごとく黒し。白馬池月は、則ち、此の水中より現はれたりとありて、池の北に今も「駄島(だしま)」など云ふ地名あり。「駄島」の「駄」は「牝馬」のことなるべし。此池月は、飛びて島前(とうぜん)に渡り、それより大海を泳ぎて出雲に來たりしを、浦人、之れを捕へて、亦、鎌倉殿に献上す(隱岐視聴合記)。出雲に於いては、今の八束(やつか)郡美保関村大字雲津(注:島根県松江市美保関町雲津)に正(まさ)しく其遺蹟あり。池月が隱岐より渡り著きし時の蹄の跡、岩上に残れる外に、又、自然に馬の姿の現はれたる奇巖もあり、と云へり(出雲懷橘談上)。但し、雲津は夙(つと)に彼(かの)島、渡航の船津(ふなづ)なりければ、二処の口碑が響(ひびき)のごとく相ひ応ずるも、特に之を奇とするを要せざるなり。

(7)四国地方


 池月は又「四国に出づ」と云ふ説あり。其説は、此の馬、最後に阿波の勝浦(注:徳島県勝浦郡勝浦町)に飛び降りて石と化せりと云ふ話と共に、後太平記の記する所にかゝる。後太平記は、諸君御信用御隨意の書なり。但し、此著者、之を知りたりしや否やは別として、此地方にも一、二、同種の伝説は存せり。
 阿波三好郡加茂村(注:徳島県三好郡東みよし町加茂)の井内谷は、山中に牧ありて、昔より良馬を出だす。或説に、池月、此の牧に出でたり、之れを名西(みやうざい)郡第拾(だいじふ)村の寺に飼ふ。至つての駿足なり。村の若者等、戲れに之れに騎(の)りて大川を渡す。宇治の高名も、つまりは吉野川にて鍛錬したるが為ならん。老馬となりて後、中国辺りにて休息し、三百余歲の寿を以て終ると云へり(阿州奇事雑話一)。
 土佐にも、古くより池月の口碑はありきと見ゆ。曽つて、此国にて駿馬を長曽我部元親に献ずる者ありし時、元親が詞に、「昔、当国池村(注:高知県高知市池)より池月と云ふ名馬を出だし、之れを鎌倉に献上せりと聞けども、此馬共の池月にをさをさ劣るまじい」と喜びたりと伝へたり(南路志四十七)。其の池村にして、果して「土佐日記」にも見えたる「池と云ふ処」なりきとせば、即ち、又、三足の「鬼鹿毛(おにかげ)」を出だしたる名誉の地にして、海と沼地との間に挟まれたる岡の上の牧なりしがごとし。

(8)九州地方


 九州に於て、一つには豊後北海部(きたあまべ)郡(注:大分県大分市佐賀関)の牧山、此れも同じく海に臨みたる磯山の上に、古来、設けられたる公けの牧にして、磨墨は此の牧より出づと云ふ説あり(豊国小誌)。
 薩摩揖宿(いぶすき)郡今泉村大字池田(注:鹿児島県指宿市池田)は、昔の「池田の牧」の地なり。風景優れたる火山湖として有名なる池田湖の岸にして、片手には又、近く漫々たる蒼海を控へたり。此牧にも、夙(つと)に池月を産したりと云ふ明瞭なる記録あり。池月と云ふ馬の名も牧の名の池田と共に、湖水より出でたるものなるべしと云ふ(三国名勝図会所引伊佐古記)。
 北部の沿海に在りては、肥前北松浦郡生月村(注:長崎県平戸市生月島)、即ち、鯨を屠(はふ)る五島の生月は、既に亦、延喜式にも載せたる「生屬牧(いけづきのまき)」の故地なりとすれば、必ずや地名に因縁して同じ伝説の存するあるならんも、自分は未だ之れを聞かず。以前の領主たる松浦静山侯の隨筆には、単に後に述べんとする「名馬草」の記事を録するあるのみ。
 対馬の島の牧に於ては、亦、黒白二駿を併せ産したりと云ふ説あり。同国仁田村大字伊奈(注:長崎県対馬市上県町伊奈)の近傍にて、後世、字磨墨田と称するあたり、治承の昔は一つの池ありき。磨墨、此池の岸に遊び、声高く嘶くときは、其の声、奴可嶽(ぬかだけ)村大字唐洲(注:長崎県対馬市豊玉町唐洲)の池田と云ふ処まで聞えたり。唐洲の池田にも又、一匹の名馬ありて住す。即ち、一匹と呼ぶのも失礼なる位の名馬「池月」是れなり。池月の嘶く声も亦、伊奈の磨墨田まで聞えたり。二つの馬は朝に往き、夕(ゆふべ)に還り、二村の境なる妙見山の麓に於いて相ひ会するを常とす。妙見は、即ち、前にも云へる北斗星の神なり。島人は、此の往来を名づけて「朝草夕草」と云ふとあり。仁田村大字飼所(かひどこ)の南に白き石あり。峯村大字三根との境の標(しるべ)なり。此の石の表に奔馬の蹄の跡、数十あるは、磨墨が池田に往来する通路なりしが為なりと云へり(津島記事)。
 千古を空しくする二箇の駿足が、牧を接して相生(さうせい)すと云ふことは余りに完備したる物語にはあれども、既に安房の簑岡や、伊豆の弦巻山などにも同じ話を語る外に、隱岐島にても、今日は亦、此の如く伝説するに至れりと云へば(日本周遊奇談)、何か深き仔細の存することなるべし。
 正史、演義の巻々を飜(ひるがへ)し見るも、池月、磨墨は、共に古今を通じて唯一つの他は無き筈なり。従ひて、以上、二十数処の産地なるものは、其何れか一箇を除きて、悉く虛誕なり。虛誕と言はんよりも、最初は単に日本第一の駿馬とのみにて、名は無かりしを、後に誰(たれ)かの注意を受けて、池月なり、磨墨なりに一定せしものなるべし。之を観ても、昔の田舍人が固有名詞に無頓著なりし程度は測り知らるゝなり。今となりて之を比較するときは、この歷史上有名なる名馬は、数ヶ処に生れて、数ヶ処にて死すと云ふことに帰着す。神変、驚くに堪へたり。

■死んだ場所


 池月のごときは、中国に老死し、或は、阿波の海岸に飛びて天馬石と化せし外に、筑後三井(みい)郡の内、旧御原(みはら)郡の馬洗川と云ふ処にも、之を埋めたりと云ふ古塚あり(筑後地鑑)。此辺りの地は佐々木高綱が宇治川の戦功に因りて封ぜられしと云ふ七百町の中にて、今も多くの佐々木氏の彼が後裔と称する者、居住す。而して、馬洗川は池月を洗ひしより起れる地名なり(筑後志)。
 東国にては、武蔵橘樹(たちばな)郡城郷(しろさと)村大字鳥山(注:神奈川県横浜市港北区鳥山町)と云ふ一村は、佐々木が馬飼料として将軍より拝領せし恩地にして、村の駒形社は亦、池月を埋めたる塚と称せらる。祠の傍らには厩に用ゐし井戸あり。曽つて附近の土中より古き轡(くつわ)を掘り出だす。字観音堂の荘司橋は亦、池月を洗ひたりと称する故跡なり(新編武蔵風土記稿)。
 下総猿島(さしま)郡五霞(ごか)村の字幸館(注:茨城県猿島郡五霞町幸主)には、薬師堂の側に「生月塚」ありて、梵文(ぼんもん)を刻したる奇形(きぎやう)の石塔、立てり。併し、池月、此地に埋めらると云ふ傍証無き限りは、以前は只だ「名馬塚」と呼びしもの、いつの世にか、斯く誤り伝へしならんと、前代の地誌家も之を危みたり(利根川図志)。
 近江阪田郡西黒田村大字常喜(注:滋賀県長浜市常喜町)の水田の間にある「馬塚」は、今も之を池月の墓とせずんば止まざる人あり。伝説に曰く、「池月、曽つて病ひす、当時、馬灸の名人、此の村に住すと聞き、遠く曳き来たりしが、其人、死して有らざりければ、馬も終に此地にて果てたり。同村大字本荘(注:滋賀県長浜市本庄町)には病馬の飲みしと云ふ泉あり。之を「池月の水」と称す」(阪田郡誌下)。
 相州足柄上郡曽我村大字下大井(注:神奈川県足柄上郡大井町下大井)にも一つの「生月塚」あり。塚は二箇なれば、之れを池月の「胴塚」「首塚」と称へたり。胴塚は路傍に在り、首塚は村の取り附きに在りて、之を山王社に祀れり。塚の上には松あり。又、同じ村の畠の中にも松一本ある塚を「馬頭観音」と名づけ、此は又、「磨墨の塚」と云ふことに決著(けつちやく)す。此地の古伝にては、池月は鄰村足柄下郡酒勾(さかわ)村大字酒勾(注:神奈川県小田原市酒匂)の鎮守の森の東、僅かの溝川の石橋を架けたる処にて、橋より落ちて死したりと云ひ、永く此橋をば、馬曳きて渡ることを戒めたりき(相中襍誌)。
 磨墨塚の尾張に在ることは、前に之を述ぶ。
 首府の南郊、荏原郡馬入村(注:東京都大田区)に於ても、小田原北条時代の旧領主を梶原氏と称せし為るなるか、同じく摺墨塚の伝説あり。源太景季、愛馬を大沢に乗り入れ、馬、死して、之を塚に埋づむと云ふこと、全く馬引沢の口碑と同じ。近年、新たに石を立てゝ之れを勒(ろく)す。塚の西に「鐙(あぶみ)ケ谷(やつ)」(注:東京都大田区南馬込四丁目)あり。磨墨の鐙を棄つと云ひ、或は、此馬、斃(たふ)れし時、鐙、飛んで、此地に至ると云へり(通俗荏原風土記稿)。
 阿波にも、勝浦郡小松島町大字新居見(注:徳島県小松島市新居見町)、並びに海岸の赤石と云ふ里の山中に各々、磨墨の塚ありて真偽の争ひあり。或は、此塚の所在に由り、義経行軍の路筋を証せんとする人ありき(阿州奇事雑話三)。然るに、此馬の寿命は、猶、十数年長かりしと云ふ説は頗る有力なり。
 磨墨は駿州狐ケ崎に於いて梶原が一党討死の後、飢ゑて斃れたりとも云ひ、又、或は、源太が、仇(かたき)の手に渡すを惜しみて、之を斬り殺したりとも伝へられたるに、更に一方には、同じ駿河の西部に於いて、此馬が終りを取れりと云ふ村ありて、百姓某なる者、其首の骨を所持す(駿国雑志)。又、狐ケ崎の笹葉(ささば)が、今も矢筈(やはず)の形をして、名馬の歯の痕を留むと云ふ話と類似する例あり。
 武州都築郡都岡(つをか)村大字今宿と二俣川村との境(注:神奈川県横浜市旭区)なる小川の岸に、「片割しどめ」と称して、年々、花葩(はなびら)の半ばのみ咲く「しどめ」あり。磨墨、昔、此地に来たりて、彼花を踏みてより、此のごとき花の形となると云ふ(新編武蔵風土記稿)。
 石と花との差こそあれ、此も名馬の蹄の跡を記念し、永く里人が之を粗末にせざりし一つの徵(しるし)なり。

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