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家康が本陣ここに八剱山

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《「長篠の戦い」における大将の陣地(本陣地)》

・徳川家康:弾正山(八剱山)→物見塚(観戦地)
・織田信長:極楽寺山→茶臼山→弾正山(観戦地)
・武田勝頼:医王寺山→清井田→才ノ神(観戦地)

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徳川家康の本陣地については、「弾正山」とする本と、「(八剱神社がある)八剱山」とする本があるが、「弾正山」は段上山や八剱山がある台地の総称で、「弾正原」「弾正台地」と言うべきであろう。

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■徳川家康本陣跡(現地案内板)
 天正3(1575)年5月、武田軍に包囲された長篠城を救援するために家康は織田信長とともに設楽原に出陣した。
 家康は、この弾正山に本陣をおき、これより東約300m(東郷中学校の向こう側)を南北に流れる連吾川をはさんで、武田軍を迎え撃った。
 この地は、まさに最前線である。ここに家康が本陣を構え、多大な犠牲を払って戦ったのは、信長に援軍を頼んだいきさつがあったからだと思われる。
 この東北400mの地点に「家康物見塚」と呼ばれる所がある。
そこは、家康が陣頭指揮をしたところである。

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 断上山古墳群(10基)の9号墳の下に「家康物見塚跡」碑がある。
 本陣跡の案内板(上掲)には、徳川家康は、「陣頭指揮」をとるために本陣を出て激戦地に赴いたとするが、俗説では、本陣からは激戦地が良く見えないので、良く見える場所に移動したのであって、「物見塚」「観戦地」だという。しかし、ここは激戦地であり、狙撃されたり、流れ矢が当る可能性が高い場所であり、「物見」「観戦」といった余裕はないはずである。

 「設楽原の戦い」は、武田軍が馬防柵に無策で突進してくれれば、3000丁の鉄砲により、数分で殲滅できたであろう。「設楽原の戦い」は、8時間続いた。ということは、武田軍が突進してこなかったのである。困った徳川家康は、「鉄砲隊を馬防柵の前に出し、武田軍が突進してきたら馬防柵の中に逃げ込ませる」などの工夫をしていたが、根本的な解決には繋がらなかった。徳川家康が武田軍から見える「物見塚」に移動すると、武田軍の突進が始まり、勝利を得たという。

 なお、武田勝頼も馬防柵から出てこない徳川・織田連合軍に業を煮やしたのか、本陣・清井田を出て、才ノ神(赤禿)に移っている。織田信長も本陣・茶臼山を出て弾正山に来たというが、史実かどうかは不明である。

※「かるた看板」の「あ」:赤禿に勝頼本陣進めたり


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