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【朗読】夏目広次(吉信)の死処

「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」(『葉隠』)

──犬死は駄目だ。
──主君のためになる死、お家のためになる死でなければ駄目だ。
──できれば、歴史に爪あとを残す死に様でありたい。

豫讓遁逃山中曰、嗟乎、士爲知己者死、女爲説己者容」(『史記』)

予譲(よじょう)、山中に遁逃(とんとう)して曰く、「嗟乎(ああ)、士(し)は己(おのれ)を知る者の為に死し、女は己を説(よろこ)ぶ者の為に容(かたち)づくる」と。(男(武士)は自分の価値を分かってくれる人(主君)のために命を投げ出し、女は自分を愛してくれる男のために一層美しくなろうとする。)(『史記』「予譲伝」)

『どうする家康』第18回「真・三方ヶ原合戦」の本多忠勝は、
・本多忠勝が叔父・本多忠真と共に討ち死にしようとすると、本多忠真は本多忠勝を殴り、「(ここでわしと2人で死ぬのではなく)主君を守って死ね」と言った。
・次に本多忠勝は、徳川家康の具足を身に付け、徳川家康の影武者として死のうとすると、夏目吉信は本多忠勝を蹴飛ばし、「おぬしはまだ先じゃ(わしの死に場所を奪うな)」と言った。
 こうして本多忠勝は、殴られたり、蹴られたりして、三方ヶ原では死に場所を見つけられなかった。死に場所を見つけられたのは、本多忠真と夏目吉信(他には成瀬正義とか)であった。


誰の声がお好き?


三方ヶ原から帰城した徳川家康は、
玄黙口(深目口、元目口)に鳥居元忠
下垂口(霜垂口)に大久保忠世、柴田康忠
山手口に戸田忠次
塩町口に酒井忠次、松平家忠、小笠原長忠
を置いたという。

玄黙口:引間城の搦手門。元目町。近くに玄黙(玄默、元默)寺があった。三方ヶ原から帰った徳川家康は、玄黙口から浜松城に入った。その後、門を開けたままで篝火をたいたという(「空城の計」)。
下垂口:引間城の大手門。下垂町は、大正14年5月、尾張町と改められた。「下垂」とは、徳川家康の腹痛によるとも、兜の緒が緩んで垂れていたことによるとも。
・山手口:「名残口」のことか?
塩町口:引馬城の女城主・田鶴の方が出陣した「塩市口」のことか?

 元亀3年12月22日徳川、武田浜松で激戦。家康は身危険となったが討死の間一髪、夏目次郎左衛門に救はれて單騎浜松城に遁がれる途中、塩賣の商人と出遭い、簑笠を借受けて着用、敵追兵の目を避けて漸く城中に入った。
 その後塩賣商人は城下者と判り恩賞として塩専賣の墨付を与えた。それで商人の住んでいた土地に塩市の名がつき、後ち塩町と改めた。

会田文彬『浜松風土記』「塩町」

夏目次郞左衞門吉信が討死するその暇に、からうじて浜松に帰り入らせ給ふ。(夏目、永禄の昔は、一向門徒に組し、御敵して生け取りとなりしが、松平主殿助伊忠、「此の者、終に御用に立べき者なり」と申し上げしに、其の命、助けられしのみならず、其の上に、常々御懇に召し使はれしかば、是の日、「御恩に報ひん」とて、君、敵中に引き返し給ふを見て、手に持ちたる槍の柄を以て、御馬の尻をたゝき立て、御馬を浜松の方へ押し向け、その身は敵中に向かひ討死せしとぞ。)

『東照宮御実紀』

 元亀3年冬、徳川家康、武田信玄と三方原に戦ひて大敗す。時に夏目次郎左衛門吉信、浜松城に留守せしが、急を聞き、与力20余騎を率い、馳せ到れば、家康、既に死を決せり。因りて大いに之を諌め、馬首を浜松城に向はしめ、畔柳助九郎武重(くろやなぎすけくろうたけしげ)に目して曰く、「汝、速かに主君を護り去れ」と。乃ち槍を揮(ふる)ひて馬臀を打つ。馬、驚き奔(はし)る。家康、辛(から)うじて城に入る。是に於ひて、吉信、自ら「家康」と称し、敵陣に突進し、奮戦して主従共に死す。実に12月22日申の下刻なり。時に年50有5。従者、其の屍を収めて城に還れば、家康、深く其の忠死を悼み、郷里三河国幡豆郡豊坂村六ツ栗明善寺に於ひて厚く葬らしむ。

「夏目次郎左衛門吉信旌忠碑」碑文

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