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浜松市の徳川家康伝承

 浜松市と岡崎&静岡市の違いは、「徳川家康」を「家康公」と呼ばずに「家康」と呼び捨てることにあり、浜松市の徳川家康伝承も「徳川家康が負けて逃げてきた」等のネガティブな伝承が多い。
 この理由は「徳川家康が嫌いだから」なのかもしれないが、呼び捨てで悪口を言えるのは、「徳川家康に親しみを感じているから」なのかもしれない。学校の先生が怖くて「三歩離れて師の影踏まず」ではなく、ニックネームで呼んで「三歩寄って師の禿を打つ」ようなものか。

 「三方ヶ原の戦い」に関する伝承は多い。
 「空城の計」に似た話に、大久保忠世が、篝火を焚いて敵をあざむいた「火ともし山」(中沢町)の話がある。

火ともし山
 中比、四つの海、静かならず、浜松、風、しばし治まらぬ比有りけり。その比、とみの比有りけるには、この山にて飛ぶ火をあげらるれば、豊田郡中泉の山にて、そのこたへの狼煙をたてられけるといへり。
 又、元亀3とせばかりに、甲斐の武田と浜松との戦ひ有りけるに、ひねもす戦ひ疲れけれども、夜の防ぎにとて、大久保七郎右衛門忠世のはからひにて、鐵砲18丁を撃たせて、篝をこの山にたて、夜もすがら此の山、軍(いくさ)人守りおりけり。されどもあまりに鐵砲も多からず有りて、防ぎもいと甲斐なかりける所に、伊場村の住人・岡部某、里人を数多催して、此の中に加はり「ふゐ」といふ物を作りて、鐵砲にぞ交へてうちけるにより、軍人の数多こもれる様になりて、敵(かたき)、夜討ちをせざりけるとなり、其の時、篝、おびただしく焚きけるによりて、此の山名を「火ともし山」と云ふと云へり。所は名殘の原の、御馬場よりは東に当たり、今も猶、人知れる所也。

(世が乱れた戦国時代、浜松城近くの山で巨大打ち上げ花火「竜勢」をあげると、磐田市中泉付近の狼煙台(注)から応答の狼煙があがったという。また、「三方ヶ原の戦い」の時、大久保忠世は、この山に篭もり、夜通し篝火を焚き、鉄砲を撃ちまくったので「火ともし山」と呼ばれるようになった。)
※ふゐ:詳細不明。小型「竜勢」(ロケット花火)のようなものか。それとも手筒花火か?(手筒花火発祥の地は東三河の吉田神社とも、菟足神社ともいわれるが、実は浜松であり、徳川家康が三河に伝えたとする説がある。)

注:本文には「豊田郡中泉の山」とあるが、当時の(浜松城と高天神城を繋ぐ)狼煙台は、見付の西(一言坂上の金比羅神社)と東(三ヶ野坂上の大日堂)にあった。一言坂上には「立場」(たてば。江戸時代の五街道やその脇街道に設けられた施設)があったので、筆者は中泉の中泉御殿と立場を混同したのではないだろうか。

 三方ヶ原の戦いで敗れた家康は浜松城に逃げてきた。敵の夜討を防ぐため家来の大久保忠世は、城の北東の山で火を焚き、鉄砲を撃って城に大勢兵がいると見せた。しかし徳川方の鉄砲はわずか18丁だった。それを見た伊場の岡部某という郷士が村人を連れ、火を焚くのを手伝った。武田勢はそれを見て、大勢の兵がいると思い、夜討ちをしなかった。その場所を 「灯ともし」といい、今も地名が残っている。

御手洗清『続遠州伝説集』

 三方ヶ原の戦いの時、武田方は、夜討ちをかけようと浜松城へ向かっていた。見ると、浜松城の辺りが燃えているので、家康が城に火をつけ逃げ出したと思い、どっと攻め込むと、暗闇に ひそんでいた鉄砲組に打ち込まれ、大きな損害を受けた。徳川方の大久保忠世が家来を連れて夜通しかがり火をたいていた場所を「灯ともし」といい、天林寺の北東に地名も残っている。

渥美実『浜松の伝説』

「口碑」は「伝言ゲーム」同様で、どんどん話が変わってくる。
また「伝説」が生まれた瞬間の話は、「伝言ゲーム」の1人目が聞いた話とは異なり、史実であるとは限らない。

団子屋の婆「三方ヶ原から負けて逃げる時に、うちの団子をみ~んな食っちまって、だから私ゃ、『銭払え~』って追いかけてなぁ、銭をふんだくってやったんだわ。ありゃ家康だったに違いないわ」
男性客「家康はな、信玄が恐ろしくて、馬上で糞をもらして『焼き味噌だ~』ってごまかしたんだと」
団子屋の婆「そういえば臭かった、臭かった。糞漏らしが武田に勝てるはずないがね」

『どうする家康』

 食い逃げが史実だとしても、「ありゃ家康だったに違いないわ」という不確実な話が、「伝説」が生まれた瞬間から「家康」で確定してしまった。「そういえば臭かった、臭かった」というノリノリの相槌が「脱糞を肯定する証人となった」とみなされ、史実として広められた。



1.小豆餅と銭取

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