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『鎌倉殿の13人』37「オンベレブンビンバ」

サブタイトル「オンベレブンビンバ」の解読合戦「鎌倉殿オンベレブンビンバ知ったかぶり選手権」が繰り広げられている。

売れないライターには、はずしても失うものが何もない。
そこで、私も参戦してみる。
私は、「オンベレブンビンバ=歩き巫女の呪文」と予想する。
仏教の真言っぽいけど、真言なら「オン~ソワカ」とかだから、仏教「真言」+神道「祝詞」の混合呪文かなと。

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★ 『鎌倉殿の13人』37「オンベレブンビンバ」 あらすじ(予想)

北条政子(小池栄子)、大江広元(栗原英雄)らと新体制を始動させた北条義時(小栗旬)は、北条泰時(坂口健太郎)を自身のそばに置き、強い覚悟で父・北条時政(坂東彌十郎)と向き合う。一方、北条時政を蚊帳の外に置かれ憤慨する牧りく(宮沢りえ)は、娘婿・平賀朝雅(山中崇)を担いで対抗することを画策。三浦義村(山本耕史)を誘い、反撃の狼煙(のろし)を上げる。北条家内の対立が激化する中、源実朝(柿澤勇人)は、和田義盛(横田栄司)の元へ。そして2人で歩き巫女(大竹しのぶ)の元へ行くと、歩き巫女は、「オンベレブンビンバ、オンベレブンビンバ、・・・」と呪文を唱え、源実朝に対して「幕府は2つに割れる」、和田義盛に対して「流れを見誤ると戦になる」と告げる。

★歩き巫女

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 歩き巫女が大竹しのぶさんだったとは・・・気付きませんでした。特殊メイクって凄いですね!(大竹しのぶさんが、特殊メイクの江川悦子さんに「私だと分からないようにして」と頼んだので、別人に仕上げたと言う。) 
 この歩き巫女は、亀の甲羅に水を入れ、榊で水をお客にかけながら占うのですが、源実朝の雪の日の暗殺を言い当てるとは凄い! あの水で顔を洗ってメイクを落としたら、ディープフェイクで若い頃の大竹しのぶさんに、いや、比企尼になったら、もっと凄いと思う。

 歩き巫女・・・『鎌倉殿の13人』の公式サイトには、「なんでも占う謎の巫女」とあるのみ。もっと詳しく知りたい・・・。
「歩き巫女」とは、「神社に所属せず、村落に寄食し、漂泊する民間巫女」のことで、全国各地を遊行し(「遊女」の語源)、イタコのように口寄せを行ったり、占いを行ったりしたという。
 庶民の間で仏教が盛んになって神道が衰退し、所属する神社が廃絶社になったり、「応仁の乱」等で社殿が焼かれたりして「歩き巫女」になったという(東京の食べ物だった天ぷらが関東大震災で全国に広まったようなものか←違うって;)が、有名な「信濃巫」(信濃国小県郡県村(長野県東御市県)から出て、全国各地を遊行した歩き巫女)について、柳田國男は『信州隨筆』において、「ノノウ」と呼ばれる諏訪大社の巫女が、諏訪信仰の伝道師として全国各地を遊行したのが始まりとした。ちなみに、北条時行の妻は「信濃巫」(『逃げ上手の若君』では雫?)である。戦国時代には、望月千代女が甲斐武田氏のために「信濃巫」を「くの一」と呼んで訓練し、情報収集活動に使役したという。
 「歩き巫女」は遊女にもなる若い女性なので、大竹しのぶさんは、「歩き巫女」と言うより、「比丘尼」のイメージだな。

■柳田國男『信州隨筆』
シナノミコ(信濃巫)といふ言葉も、少なくとも江戸期の関東地方ではよく知られて居た。(中略)死霊のみの口を寄せて居たやうだが、旅をする巫女たちには、是は寧ろ不向きな仕事であった。(中略)以前は多分諏訪の御社の霊験を説き、其神宜を伝達することが目的であったらうかと思ふ。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453751/13


★北条氏の骨肉の争い

  物いはぬ四方(よも)の獣(けだもの)すらだにも
               あはれなるかな親の子を思ふ (源実朝)

★「和田合戦」の予言

『鎌倉殿の13人』では、この歩き巫女が、「和田合戦」勃発の予言をする?
実際に「和田合戦」勃発の予言をしたのは、馬鳴大明神(建穂神)である。

■『東海道名所図会』「建穂神社」
 木枯森の畔にあり。
 延喜式内。
 今、「馬鳴明神」と称して、建穂寺の鎮守となる。
 『東鑑』に見ゆ。

☆駿河国安倍郡の式内社 7座
・足坏神社=現・足坏神社(静岡県静岡市葵区足久保奥組)
・神部神社=現・神部神社(静岡浅間神社の境内社)
・大歳御祖神社=現・大歳御祖神社(静岡浅間神社の境内社)
・建穂神社=現・建穂神社(静岡県静岡市葵区建穂)
・中津神社=現・住吉神社(静岡県静岡市葵区一番町)
・小梳神社=現・小梳神社(静岡県静岡市葵区紺屋町)
・白澤神社=現・白澤神社(静岡県静岡市葵区牛妻)

■『吾妻』「承元4年(1210年)11月24日」条
 承元四年十一月大廿四日戊申、駿河國建福寺鎭守・馬鳴大明神、去廿一日夘尅、詫少兒、「西歳可有合戰」之由云々。別當神主等注進之、今日到來。相州披露之。仍「可有御占歟」之由、廣元朝臣雖申行之、將軍家、「彼廿一日曉夢合戰事得其告。非慮夢歟。此上不可及占」云々。被進御釼於彼社云々。

(承元4年(1210年)11月24日、駿河国の建穂寺(静岡県静岡市葵区建穂。現在は観音堂のみ)の鎮守社・馬鳴大明神(静岡県静岡市葵区建穂の建穂神社)は、去る(3日前の)11月21日の卯の刻(午前6時頃)、子供に憑依して「(3年後の)酉年(1213年)に戦(注:3年後に「和田合戦」と判明)がある」と託宣したという。馬鳴大明神の別当神主(禰宜)がこれを注進し、今日(鎌倉に)到着したので、相模守・北条義時が(将軍・源実朝に)披露した。それで「(真偽を)占いましょうか?」と大江広元が言ったが、将軍・源実朝は、「馬鳴大明神のお告げがあった11月21日の明け方、私は、夢で、『合戦がある』と告げられた。これは逆夢(さかゆめ)ではないので(正夢(まさゆめ)なので)、この上、占いをする必要はない(神を疑うのは失礼である)」として、刀を馬鳴大明神に奉納したという。)
■太宰治『右大臣実朝』
厩戸の皇子さまは、まことに御神仏の御化身であらせられたさうでございますが、故右大臣さまにも、どこかこの世の人でないやうな不思議なところがたくさんございまして、その前年の七月にも将軍家は住吉神社に二十首の御歌を奉納いたしましたが、それは或る夜のお夢のお告げに従つてさうなされたのださうで、また承元四年の十一月二十四日の事でございましたが、駿河国建福寺の鎮守馬鳴大明神の別当神主等から御注進がございまして、酉歳に合戦有るべし、といふ御神託が廿一日の卯の剋にあつたといふ事だつたので、相州さまも入道さまも捨て置けず、その神託に間違ひないかどうか、あらためて御占ひでも立てたら如何でせうと将軍家にお伺ひ申したところが、将軍家は淋しげにお笑ひになり、
廿一日ノアカツキ、同ジ夢ヲ見マシタ。アラタメテ占フニハ及ビマセン。
 と落ちついてお答へなさいましたので、皆も思はず顔を見合せました。果して、三年後の建保元年癸酉のとしに、例の和田合戦が鎌倉に起り御ところも炎上いたしましたが、このやうなお夢の不思議はその後もしばしばございまして、(後略)

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