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【神社雑記】諏訪神とアラハバキ神

■諏訪神

 諏訪大社の御祭神・諏訪神(「お諏訪さま」「諏訪大明神」「諏訪明神」)の御分霊を祀るのが全国に約25000社あるという諏訪神社です。(分社には、諏訪山の山頂に上社、山麓に下社という形式の諏訪上下社もあります。)
 諏訪神は、戦国時代には軍神であり、武田氏の占領地に建てられました(有名なのは諏訪原城の諏訪神社ですね。「諏訪原」は「諏訪神社がある台地」の意で、現在の「牧之原」)が、『日本書紀』には風神とあります。庶民は水神だと思っているのか、諏訪神社は川岸に多いです。諏訪大社の天竜水舎の「諏訪上社七不思議」の一つである「宝殿の天滴」を水源とし、遠州灘(太平洋)に注ぎ込む大河を「天竜川」と言いますが、同時代に建てられた諏訪神社を線で結ぶと、その時代の天竜川の川筋になるといわれています。そもそも「風水」とは、海と海の上空に発生する台風を指すので、「諏訪神=建御名方神=風水神=海神・スサノオ尊」とする説もあります。(諏訪大社でいう海は、須波海(現在の諏訪湖)のことでしょう。諏訪神は「山(御山(守屋山)、御射山)の神」だとされますが、私は「諏訪湖の神」だと思っています。)

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 神社の境内には、「境内社」と呼ばれる小祠があり、摂社末社に分かれます。摂社の御祭神は、本殿の主祭神と縁のある神で、末社の御祭神は本殿の主祭神とは縁のない、たとえば、秋葉神、稲荷神といった流行神になります。
 この神社の摂社に「須波南宮社 健南方刀美命 従四位下」があります。

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 「須波南宮社 従四位下」とは、「近くにあった『三河国神明名帳』に掲載されている「従四位下 次波南宮明神」を合祀した」(「次」は「須」の誤写。「須」の草書体を「次」と読んでしまったのでしょう。ついでに言うと、神楽社の「安須女命」は「宇須女(天宇須女、あめのうづめ、天鈿女、天鈿売)命」の誤り)ということです。しかし、現在では、「次波南宮明神」とは諏訪南宮神社(愛知県北設楽郡東栄町本郷)のことであり、この神社の「須波南宮明神」は、大正5年(1916)年に合祀した近くの厳島神社で祀られていた神だと訂正されています。(ちなみに「諏訪南宮神社」の御祭神は、諏訪神(建御名方命)と南宮神(金山彦命)の2座です。)

・「健南方刀美命」とは「建御名方命」のことです。(諏訪大社は、平安時代の『日本三代実録』には、「建御名方富命神社」とあります。)なお、建御名方命の后神・八坂姫命は、「八坂刀売(とめ)神」「八坂斗女(とめ)神」とか「八坂刀自(とじ)神」と呼ばれています。)

■アラハバキ神

 聞き慣れない社名に「荒波婆岐社 豊石窓命&奇石窓命」(あらはばきのやしろ とよいわまどのみこと&くしいわまどのみこと)があります。

 荒波婆岐神は、「縄文人の神であり、その正体は「ハバキ(蛇)」である」とする学者もおられますが、巨岩の前に祀られることが多いので、「シャクジン(石神)」でしょう。(その巨岩に蛇穴があるから神格化した?)諏訪神も原始時代は「ミシャクジ(御石神)」だったとか。
 日本の神々で「石」の名を持つのは、豊石窓命&奇石窓命(櫛石窓命)ですので、現在、荒波婆岐神は、門客神(もんきゃくじん。神社の門に祀る客人神(まろうどかみ))とされ、この神社では、鳥居横の小祠に祀られています。

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 豊石窓命&奇石窓命(櫛石窓命)は、後に随身門の随身(随臣。貴族の外出時、警護のために弓を持って随従した近衛府の官人)に変わり、「閽神(かどもりのかみ)」「看督長(かどおさ)」「矢大臣(向かって左の弓矢を持っている方。「右大臣」とも)&左大臣」と呼ばれています。
 そういえば、日光東照宮の随神門「陽明門」の随身は、明智光秀=天海論者の間では、右が明智光秀、左が明智秀満(異説では明智光秀と織田信長)とされていますが、さてさて、どうなのでしょう?

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 随身門の原型は、鳥居の下に置かれる石でしょうね。
 そして、荒波婆岐神社は、本来は、巨岩を御神体とする神社でしょう。

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 上の写真の荒鎺(あらはばき)神社は、巨岩(木で隠されてよく見えない)の前に鳥居があるだけで、本殿はもちろん、拝殿すら無く、「神社(かみやしろ、神屋代)」と呼んでいいかどうか・・・まぁ、古代の神社はこんな感じでしょうね。社殿を建てたのは、仏教伝来後の寺に対抗してのことでしょう。初めは御神体(山、巨岩とか)の前に拝殿(兼祭祀用具倉庫)を建てて対抗し、後には仏像(御本尊)が置かれる本堂に対抗して、御神体(祭祀用具の剣、鏡、玉など)を置く本殿を建てるようになります。

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