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源範頼生存5説と6ヶ所の墓

建久4年(1193年)8月17日━━源範頼は伊豆国に幽閉された。
その後について、『吾妻鏡』には書かれていないが、『保暦間記』には、
「誅(う)たれけるとかや」(誅殺されたそうである)
とある。(永井路子『草燃える』では、北条義時の命令で三浦胤義らが斬ったとし、『鎌倉殿の13人』では、梶原景時の家臣・善児が暗殺したとした。)

■『保暦間記』
同八月、三河守・範頼、被誅畢ぬ。其故は、去る富士の狩の時、「狩場にて大将殿、打れさせ給」と云事、鎌倉へ聞えたりけるに、二位殿、大に騒で嘆せ給けるに、範頼、鎌倉に留守也けるが、「範頼、左(たすけ)て候へば、御代は何事か候べき」と慰め申たりけるを、「扨(さて)は世に心を懸たるか」とて被誅けるとかや。不便なりし事也。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879818/377

伊豆国では、源範頼は修禅寺(静岡県伊豆市修善寺)の八塔司(はったす)の1つである「信功院」(現在は庚申塔があるのみ)に幽閉され、8月末、梶原景時に攻められて自害したと伝えられている。

■「源範頼の墓」現地案内板
範頼は鎌倉初期の武将。義朝の第六子で、蒲冠者と呼ばれた。治承4年(1180年)に兄頼朝と義仲が対立したとき、弟義経と共に義仲を倒し、次いで一ノ谷の合戦で平家を破り、功によって三河守に任じられた。その後頼朝と義経の仲が険悪化し、頼朝が範頼に義経征伐を命じたが断ったため、頼朝から疑われるようになった。
建久4年(1193年)の曽我兄弟仇討ちの際、頼朝討死の誤報が伝えられ、悲しむ政子を「範頼あるかぎりご安心を」と慰めたため、幕府横領の疑いを招いた。範頼は百方陳弁に務めたが、ついに修禅寺に幽閉され、さらに梶原景時に攻められ、日枝神社下の信功院で自害したと伝えられている。
                               伊豆市
■岡本綺堂『秋の修善寺』
 朝飯をすました後、例の範頼の墓に参詣した。墓は宿から西北へ五、六町、小山というところにある。稲田や芋畑のあいだを縫いながら、雨後のぬかるみを右へ幾曲りして登ってゆくと、その間には紅い彼岸花がおびただしく咲いていた。墓は思うにもまして哀れなものであった。片手でも押し倒せそうな小さい仮家で、柊や柘植などの下枝に掩われながら、南向きに寂しく立っていた。秋の虫は墓にのぼって頻りに鳴いていた。
 この時、この場合、何人も恍として鎌倉時代の人となるであろう。これを雨月物語式に綴れば、範頼の亡霊がここへ現れて、「汝、見よ。源氏の運も久しからじ」などと、恐ろしい呪いの声を放つところであろう。思いなしか、晴れた朝がまた陰って来た。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000082/card49564.html

 源範頼の死については同時代史料がないと言ってよい。また、子孫が存在することから、梶原景時は源頼朝に「源範頼を殺した」と報告するも、実は逃がしたのではないか、もしくは源頼朝に出家を条件に許されたのではないか、という「源範頼生存説」が存在する。

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