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『豊橋百科事典』の三河西郷氏関連項目

1.三河西郷氏

・『西郷氏興亡全史』(さいごうしこうぼうぜんし)

 「西郷氏興亡全史」(歴史調査研究所 平成6年)は、小林貞美と牧野登によって著作された。
 西郷氏は、発祥の地を肥前国高来(たかき)郡西郷(長崎県南高来郡瑞穂町)としている。足利一門の仁木義長に従って三河に移り住んだ西郷氏は、仁木氏の三河守護就任に伴って三河守護代に任ぜられた。
 仁木義長の没落とともに額田郡大草城主の西郷彈正左衛門稠頼は、岡崎へ進出して享徳元(1452)年岡崎城を構築した。しかし当時の新興勢力であった松平氏と対峙して敗北し、岡崎城を差し出して大草城へ退去した。このため岡崎西郷氏の勢力の多くは東三河の八名西郷氏のもとへ移動した。
 八名西郷氏の西郷正員・正勝・元正・義勝の4代は、今川氏と松平氏へ二転三転して従属した。正勝の2男清員の養女お愛は、2代将軍秀忠の生母西郷の局である。西郷家は、幕藩体制のもとで下総国生実(おゆみ)(千葉市緑区)に5000石で、元和6(1620)年には1万石の譜代大名として安房国東条藩(千葉県鴨川市)に抜擢されて移封された。将軍綱吉の時代に下野国上田藩(栃木県下都賀郡壬生町)に移され、さらに近江国野洲(滋賀県野洲中主町)へ5000石に滅封されて移った。

・西郷清員(さいごうきよかず)

 さいごう・きよかず(?~1594)
 西郷清員は、西郷正勝の子として生まれた。西郷氏は、肥前高来郡西郷(長崎県南高来郡瑞穂町西郷)が発祥の地である。足利尊氏の将仁木義永が三河の守護であったときの守護代であったと伝えられる。
 大永3(1523)年祖父の西郷正員(まさかず)は、月ヶ谷城(豊橋市嵩山町)を築き、今川氏親に属した。永禄3(1560)年桶狭間で今川義元が敗死した後、父・正勝と兄・元正は、同3(60)年築城した五本松城において、今川の将朝比奈泰長に襲われて討ち死にした。西郷清員は、永禄5(1562)年西川城(豊橋市西川町)を築いて本拠とした。文禄3(1594)年12月11日、没した。
 なお、西郷清員の姪西郷の局は、徳川家康の側室として徳川秀忠、松平忠吉を生んだが、天正17(1589)年、駿河で没した。西郷清員の子、西郷家員(いえかず)は、天正6(1578)年遠江牧野原(静岡県榛原郡金谷町)に移るが、徳川家康の関東移封に従い、下総(千葉市中央区)に5000石の所領を与えられた。西郷家員の子、西郷忠員(ただかず)は、元和6(1620)年、安房東条(千葉県鴨川市)に封ぜられ1万石の大名となった。後、元禄5(1692)年下野上田(栃木県下都賀郡壬生町)に転封される。さらに、元禄8(1695)年5000石を減封され、近江に所領を与えられ、旗本となり、明治維新を迎えた。

2.西郷八城など

・月ヶ谷城(わちがやじょう)

 月ヶ谷城は、豊橋北部方面で勢力を誇った西郷氏の城の一つである。城址は正宗寺の南西裏山にあたり、遺構として曲輪、堀、土塁、井戸、土止め用のためと思われる石積みが確認できる。縄張りは、南東方面に出曲輪を築くなど本坂峠方面からの今川氏の侵攻を意識したものとなっている。これに対して北の防備が手薄なのは、この方向は尾根伝いに西郷氏本城の五本松城(豊橋市石巻中山町)へ通じているためであろう。この城の様子を伝える絵図として広島市立中央図書館浅野文庫所蔵「諸国古城之図」中の「三河月谷」があり、規模は100m×80m 程度と考えられる。

・市場城(いちばじょう)

 市場城は、豊橋北部方面で勢力を誇った西郷氏の城の一つと考えられている。
 「三河国二葉松」(元文5年)に「嵩山村古城西郷孫四郎、奥山修理進、中山是非之助、西郷家之別」とあるのがこの市場城と思われる。当時の勢力関係から遠江国引佐を領有していた奥山氏の城と見るには疑問も残る。正宗寺裏山の月ヶ谷城と一つの城を形成しているとの考えもある。月ヶ谷城やその周辺の城を多く描く広島市立中央図書館浅野文庫所蔵「諸国古城之図」の中の「三河月谷」には市場城は描かれていない。
 時期は、永禄年間(1558~70)ごろ、規模は地籍図から100m×70m程度と推定される。場所は豊橋市嵩山町自由ヶ丘団地西側の畑地に位置し、土塁を残している。

・弾正砦(だんじょうとりで)

 弾正砦は、豊橋北部方面で勢力を誇った西郷氏の城の一つである。位置を特定できないが、豊橋市石巻中山町の採石場付近にあったとされる。遺構はなく、規模なども不明である。

・堂山砦(どうやまとりで)

 堂山砦は、豊橋北部方面で勢力を誇った西郷氏の城の一つである。医神社(豊橋市石巻中山町)の北東に、三段の削平地が確認できるが、これは大永2(1522)年に焼失した太陽寺の跡である。「八名郡誌」によれば、堂山城はこの太陽寺跡とされるが定かではない。時期、規模なども不明である。

・五本松城(ごほんまつじょう)

 五本松城は、豊橋北部方面で勢力を誇った西郷氏の本城である。西郷氏は、石巻中山地区を中心に城砦(じょうさい)群を築いたが、この城は唯一平地部に位置する。この城の様子を伝える広島市立中央図書館浅野文庫所蔵「諸国古城之図」の中の「三河五本松」には、土塁(あるいは石垣か)により区画された居館が描かれているが、現在遺構はない。規模は地籍図から150m×150m程度とされる。永禄5(1562)年までは存在していたとされる。
 また、この城の背後(東)の尾根上には、「三河五本松」で「番所」と記された場所の遺構とされる曲輪(くるわ)、堀切、土塁が確認できる。その規模は25m×20m程度である。「三河国名所図絵」の中の「西郷氏古城跡之図」によれば、五本松城に該当する場所は「城屋敷」と記され、その北東の山を「五本松城跡」としている。

・高城(こうじょう)

 高城は、豊橋北部方面で勢力を誇った西郷氏の城の一つである。この城の様子を伝える絵図として広島市立中央図書館浅野文庫所蔵「諸国古城之図」の中の「三河五葉」がある。
 五葉城は、豊橋市と新城市の境の新城市富岡に所在し、東名高速道路沿いの大原調整池(五葉湖)の南東の山にあたる。その縄張りは大きく二つの曲輪に分かれ、一般的には南の豊橋市側を高城、北の新城市側を五葉城とするが、これを一つにまとめて五葉城、あるいは高城としているものもあり、混乱を招くことがある。
 両城を別の城とした場合の規模は高城が80×50m程度、五葉城が300m×130m程度で、ともに遺構として曲輪、堀、土塁などが確認できる。他の西郷氏の城砦群と比べた場合、この二つの城は軍事的縄張りが顕著である。

・諏訪東砦(すわひがしとりで)

 諏訪東砦は、豊橋北部方面で勢力を誇った西郷氏の城の一つである。広島市立中央図書館浅野文庫所蔵「諸国古城之図」の中の「三河五本松」で「タイトコロ」と記された場所の遺構と思われる曲輪、堀切、土塁が確認できる。その規模は50m×20m程度である。この砦の西には諏訪西砦があったが、位置は特定できない。

・萩平山城(はぎひらさんじょう)

 萩平山城は、豊橋北部方面で勢力を誇った西郷氏の城の一つである。西郷氏の本城の五本松城(豊橋市石巻中山町)は西を除く三方を連なる山に囲まれているが、開口部である西方にも山が一つあった。この山に築かれたのが萩平山城である。
 遺構としては山頂から三段に連なる曲輪、土塁、堀切が確認できる。この城の様子を伝える絵図として広島市立中央図書館浅野文庫所蔵「諸国古城之図」中の「三河五本松」がある。この図は城周囲の連なる山も描いており、五本松城だけでなく萩平山城も描かれている。

・西川城(にしがわじょう)

 西川城は、豊橋北部方面で勢力を誇った西郷氏の城の一つである。数ある西郷氏の城砦群の中にあって西川城は最も西、五本松城方面から連なる丘陵先端部に位置している。「三河国二葉松」(元文5年)に,「西郷西川村古城、天文年中西郷孫三郎種員、永禄年中同左衛門佐吉員、或云弾正、天正年中同弾正忠家員、始名孫九郎、同久太夫政員、同新太郎某、天正十八年得替」とある。
 城址は、大福寺(豊橋市石巻西川町)の北にあり、近年ではカタクリの花群生地として知られている。遺構として曲輪、堀、土塁が確認できる。土塁の一部は櫓台状に広がっている。豊川方面の牧野氏を意識しての築城とも考えられている。規模は100m×100m程度、時期としては天文年間(1532~55)~天正18(1590)年とされている。


3.神社

・日吉神社(ひよしじんじゃ)

 日吉神社の創建は明らかでないが、西郷七か村の惣氏神として大山咋命を祀ったものである。長承3(1134)年藤原成忠の2男晴蓮が天台宗白星山大陽寺を建立し、山王社を佐井天神の社地に建てて山内鎮護の社としたという。佐井天神は、「三河国内神明名帳」の「正五位下佐井天神,坐八名郡」という。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に、萩平村「山王権現、祢宜五郎太夫、御黒印三石目、但一石西川村、一石平野村、一石萩平村、外ニ松林一ヶ所弐丁三反歩、権現様御黒印、右五郎太夫外屋敷ヘ被下置」とある。天正10(1582)年西郷城主西郷清員が社殿を造営した。昭和42(1967)年「日吉神社の雨乞の面」が豊橋市有形文化財に指定された。

・大蔵神社(おおくらじんじゃ)

 大蔵神社の創建は明らかでないが、「三河国内神明名帳」に、「従四位下大蔵明神坐八名郡」とあり、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)を祀る。古棟札に、「大蔵宮一宇貞観二(860)年」「奉崇敬大蔵宮、応安元(1368)年」「奉再建大蔵宮一宇、于時天正第十壬午(1582)九月二十九日、権大僧都日保西郷孫九郎」とある。西郷弾正家は、萩平の日吉山権現を領土守護の神とし、西郷7か村の総社と定め、中山の大蔵大明神をその奥の院とした。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に、中山村「大倉大明神、祢宜平野村五郎太夫」とあり、「三河国二葉松」(元文5年)に、「中山村山王社,黒印三石,神主中西五郎太夫」とある。
 明治維新の際、大蔵神社は日吉神社の摂社とされたが、明治8(1875)年、中山村(豊橋市石巻中山町)の氏神とした。大蔵神社の宝物7面(現在は4面)の箱書に、「奉寄進大明神、万治二己亥歳(1659)十二月大吉祥日、大工権田新右衛門」、裏書に「三州八名郡小野田庄太陽寺、中山大倉大明神、権田新右衛門、同喜兵衛、同重郎左衛門、同権助」と記してある。昭和31(1956)年「大蔵神社の樟(くす)及び藤」が愛知県天然記念物に指定されたが、昭和35(1960)年「樟」、平成9(1997)年「藤」が指定解除された。昭和42(1967)年「大蔵神社の雨乞面」が豊橋市有形文化財に指定された。

・諏訪神社(すわじんじゃ)

 諏訪神社は、大永7(1527)年五本松城主西郷弾正左衛門尉信貞が建御名方命を勧請したと伝える。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に、中山村「諏訪大明神、村中支配」とある。延宝6(1678)年吉田(豊橋)城主小笠原能登守社参の途中、境内から鏡を発見奉納し、社殿を修復した。

4.寺院

・正宗寺(しょうじゅうじ)

 嵩山正宗寺(臨済宗妙心寺派)の創立は、由緒書によれば貞和元(1345)年であるが、永仁年中(1293~99)を起源としている。開山の日顔禅師は宋僧であり、地形が中国の嵩山(すうざん)(中国河南省登封県)に似ていることから、山号を嵩山とし、寺名は禅師が嗣法(しほう)した天目山の獅子正宗禅寺の名をとった。室町期に隆盛を極め、三河・遠州にかけて百数十か寺の末寺を持つ臨済宗正伝の独立大本山となった。
 大永年間(1521~28)以降、正宗寺は2度の兵火に見舞われて全山焼失し、教勢も衰えたが、開基の西郷家による再建寄進により復興した。また中興開山雲竜禅師は、慶長13(1608)年妙心寺に奉勅入寺して法系を継ぎ、江戸時代から妙心寺直末となった。
 「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に、嵩山村「嵩山正宗寺、京都妙心寺末寺、長老、客殿拾間半・七間、境内廿三丁・十八丁、御朱印寺領三十六石目、開山堂三間半・弐間、鎮守堂三尺四方、地蔵堂三間・弐間、隠居所浄隠軒、塔中陽徳院・祥泉軒・有隣軒・松寿庵・清首軒・南谷院・三会軒」とある。「三河国二葉松」(元文5年)に、「嵩山村、寺領三十六石、禅宗関山派、開山日顔禅師、本寺京都妙心寺、西郷孫三郎建立、六々山正宗寺」とある。
 本尊は釈迦如来像と脇士迦葉・阿難像の三体であり、背面の壁画十六羅漢の像とともに正徳3(1713)年前後の作といわれている。11世万年和尚(1742~1816)の代に伽藍を建立し,円山応挙の高弟長沢芦雪(ろせつ)に依頼し障壁画を描かせた。長沢芦雪の筆による「旧方丈障壁画」42幅および羅漢図3幅は昭和56(1981)年国の重要文化財に指定されており、別名芦雪寺ともいわれている。また、愛知県指定文化財として開山伝来の「釈迦三尊像」3幅、伝狩野元信筆「花鳥山水」、狩野正信筆「四皓の図」を所蔵するほか、円山応挙筆「竜虎の図」、伝兆殿司(ちょうでんす)筆「涅槃像」、白隠筆「達磨図」「霊山会図」が豊橋市文化財に指定されている。

・菩提寺(ぼだいじ)

 蓮華山菩提寺(臨済宗妙心寺派)の創立は、嘉慶年間(1387~89)、開山は遠峯座元と伝えられ、古来正宗寺末松寿派に属していた。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に、中山村「禅宗、蓮花山菩提寺、嵩山正宗寺末寺、平僧、客殿五間半・四間半」とある。本尊は聖観音菩薩坐像である。境外の墓地には歴代和尚の墓碑に隣接して、西郷正勝の墓がある。

5.西郷七ヶ村など

・嵩山村(すせむら)

 八名郡嵩山村の地名は、正宗寺の開山日顔禅師が中国の少林寺畔の嵩山(すうざん)に似ているとしたことに由来するとされる。八名郡嵩山村の村高は、「三河国村々高附」(寛永期)に670石、「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分653石余、白土社領3石、正宗寺領48石余とあり、「吉田領戸数調」(安政5年)によれば、家数153、人数593であった。明和元(1764)年以来本坂道(姫街道)の宿場を形成した。嵩山宿と三ヶ日宿の間に本坂峠(標高380m)がある。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に、嵩山村「嵩山正宗寺、白土大明神、大山浅間社、富士浅間社、原川浅間社、尾原浅間社」とある。「三河国二葉松」(元文5年)に「嵩山村古城西郷孫四郎、奥山修理進、中山是非之助、西郷家之別」土産名物器財部「嵩山石灰」「嵩山村白土大明神、黒印三石、神主中山藤太夫」「寺領三十六石、禅宗関山派、開山日顔禅師、本寺京都妙心寺、西郷孫三郎建立、六々山正宗寺」とある。明治11(1878)年、嵩山村・長彦村・月ヶ谷村は合併して嵩山村となった。昭和30(1955)年、豊橋市嵩山町となる。昭和32(1957)年7月1日、「嵩山蛇穴」が国の史跡に指定された。

・中山村(なかやまむら)

 中山村は、慶長9(1604)年ごろ、西郷村から分立したとみられる。八名郡中山村の村高は、「三河国村々高附」(寛永期)に「西郷村今ハ中山ト云」156石余、「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分231石余とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば、家数59、人数261であった。永禄年間(1558~70)に西郷正勝が築いたと伝えられる五本松城址がある。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に、中山村「禅宗蓮花山菩提寺、大倉大明神、薬師堂、諏訪大明神」とある。「三河国二葉松」(元文5年)に「山王社、黒印三石、神主中西五郎太夫」とある。「村差出帳」(明治5年)に「大倉大明神元神主中西守衛、諏訪大明神、八幡大神、山神、天神、素盞嗚社、医師社、行者社、禅宗蓮華山菩提寺」とある。昭和30(1955)年に、豊橋市石巻中山町となった。

・萩平村(はぎひらむら)

 萩平村は、慶長9(1604)年ごろ、西郷村から分立したとみられる。八名郡萩平村の村高は、「三河国村々高附」(寛永期)に150石余、「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分386石余、日吉社領1石とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば、家数67、人数272であった。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に、萩平村「山王権現、御黒印三石目、但一石西川村、一石平野村、一石萩平村、雲洞山竜泉寺」とある。昭和30(1955)年に、豊橋市石巻萩平町となる。

・西川村(にしがわむら)

 八名郡西川村の村高は、「三河国村々高附」(寛永期)に404石余、「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分790石余、日吉社領1石とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば、家数101、人数393であった。永正年間(1504~21)西郷氏が築いたと伝える西川城址がある。「三河国二葉松」(元文5年)に「西郷西川村古城、天文年中西郷孫三郎種員、永禄年中同左衛門佐吉員或云弾正、天文年中同弾正家員、始名孫九郎、同久太夫政員、同新太郎某天正十八年得替」「天王社除地新畑一反四畝四歩神主西川伝九郎」とある。寺院に臨済宗大福寺・西河院がある。昭和30(1955)年に、豊橋市石巻西川町となった。

・平野村(ひらのむら)

 平野村は、慶長9(1604)年ごろ、西郷村から分立したとされる。八名郡平野村の村高は、「三河国村々高附」(寛永期)に301石余、「旧高旧領取調帳」(明治元年)に豊橋藩領分519石余、日吉神社領1石とある。「吉田領戸数調」(安政5年)によれば、家数88、人数385であった。明治25(1892)年、中沢新田(豊橋市牛川町)の神明社を遷座して産土神とした。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に、平野村「禅源山悟本庵」とある。昭和30(1955)年に、豊橋市石巻平野町となる。

・石巻村(いしまきむら)

 石巻村は、明治39(1906)年7月1日、八名郡多米(ため)村・三輪村・玉川村・嵩山村・西郷村が合併してできた村である。昭和7(1932)年9月1日、石巻村大字多米は豊橋市に、同30(55)年3月1日、石巻村は豊橋市に合併した。

・『豊橋百科事典』
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