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Reco旅 -新居④式内社-

1.浜名郡の式内社

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https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991103/170

弥和山神社(ミワヤマ)     論社:大神山八幡宮(湖西市大知波)
英多神社(エタ)        論社:英多神社(浜松市北区三ヶ日町)
猪鼻湖神社(ヰハナコ)     論社:猿田彦神社(湖西市新居町新居)
大神神社(オホムワ)      論社:二宮神社(湖西市新居町中之郷)
角避比古神社(ツノサクヒコ)(湖西市新居町浜名→新居)

※論社については複数あり。
※「英多」の読み方は、「えた」ではなく、「あがた」だという。
※「猪鼻湖」の読み方は、「ゐはなこ」ではなく、「ゐのはなこ」、もしくは、「ゐのはなみなと」だという。

2.式内大社・角避比古神社


 遠江国には式内大社が2社しかない。
 1社は遠江国西端の角避比古神社であり、1社は遠江国東端の敬満神社(静岡県島田市阪本)である。
 角避比古神については、『文徳実録』に「浜名湖に太平洋と繋がる湖水の出口が1つある。その開閉は不規則である。閉じれば水が放出されず、水があふれ出て、水害となって民が困り、開けば農作物に水が供給され、豊作となって民が喜ぶ。神は、ある時は荒魂となって閉ざし、ある時は幸魂となって開く」(意訳)とある。これにより『特選神名牒』には「角避比古神は津の幸彦の神にして、湖口の開塞を知りて民の幸福を知ります神と云義にて、実は水門の功徳を称へ奉れる御名ならん」とあるが、私は「水門(堰、ダム)」の神ではなく、「津の杭(綱杭)」の神であり、その正体は、一般的には葦の神とされる角杙(ツヌグイ)神&活杙(イクグイ)神(夫婦神)だと考えている。(字名「角避」を現地の人は「つなぐい」と読む。)

※浜名湖は、太平洋と浜名川で繋がっており、その河口は「南遠大砂丘」の西端であって、天竜川が運んできた砂州になっていた。天竜川が大量の砂を運んだり、強風で砂が運ばれた時には、浜名川の河口部が閉ざされたと思われる。

 現在、角避比古神の「角」は牛頭天王の角だとして、スサノオ尊として祀られている。

■『文徳実録(日本文徳天皇実録)』「嘉祥3年(850年)8月3日」条
八月戊申。詔以遠江國角避比古神。列官社。先是。彼國奏言。此神叢社。瞰臨大湖。湖水所漑。擧土頼利。湖有一口。開塞無常。湖口塞則民被水害。湖口開則民致豐穰。或開或塞。神實爲之。請加崇典。爲民祈利。從之。
http://www.kikuchi2.com/chuko/montoku.html

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 角避比古神社の所在地は、「角避山」とでも呼ぶべき高師山連山の1つの山の山頂にあったという。上掲『文徳実録』にも「此神叢社。瞰臨大湖」(この角避比古神社は(山頂にあり)古浜名湖を俯瞰していた)とある。隣の山を「諏訪山」といい、諏訪上社があったという。
 大地震により、山が崩れ、角避比古神社も諏訪上社も倒壊したという。角避比古神社があった角避山(仮称)の山麓には「角避(つのさく、つなぐい、つなごえ)」「神田(じんでん)」という地名が残り、諏訪上社は諏訪下社に合祀されて諏訪上下社となった。

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■『静岡県史』(第三巻)「第九章 神社」
現今新居町濱名に角避といふ小字が残つてゐる。また『遠江式社摘考』によれば敷知郡橋本村(即ち新居町濱名)の酉の方にあたり高師山峯続下諏訪山に往古大海水海帯の湊を詠め鎭座成玉ふ角避比古神社跡とて、今に五畝歩程平地あり、其麓の田畑を今に字角避下と相唱ふといふ説が見えてゐる。此等は何れも角避比古神社の新居町濱名鎭座説を有力ならしめるものと考へるが、今日その現在社に擬當すべき神社は存しない。恐らく當社は平安末期に於て屡々の海粛の爲めにか何時か流亡したのであらう。

角避比古神社(高師連山)┬角避比古神社(今切湊)─湊神社(源太山)
            ├論社(細江神社、一宮神社、若御子神社etc.)
            └遠江一宮・小国神社

 角避比古神社は高師連山にあったが、地震により倒壊した。その後、今切湊に再建されたが、津波により倒壊し、源太山に再建された。その後、郷土史家が今切湊に角避比古神社を再建して現在に至る。
 問題は、ご神体がどこにあるかである。
①村櫛、伊目と流れ、最終的には細江に漂着(細江神社)
②海岸に漂着したのを拾って高師連山に祀るが出火。→一宮神社
③宮司により持ち出され、若御子神社で祀られている。
・・・
諸説あるので、明治政府は小国神社に角避比古神を祀って解決した。

3.式内小社・猪鼻湖神社


「猪鼻湖」については、
①大崎湖(猪鼻岩がある猪鼻瀬戸の北の湖)の異称説
②浜名湖の異称説
③正しい表記は「猪鼻湊」説(「湖」と書いて「みなと」と読む)
がある。(現在、「猪鼻湖」といえば①を指す。)

「鼻」は「半島状に突き出した場所」であり、浜名橋は2つの半島状の砂州、すなわち、「猪ノ鼻」と「卯ノ鼻」を結ぶ橋だという。「猪」は「亥」(北北西)であろうが、「はな」は「鼻」ではなく、「端」だとも考えられる。

「猪鼻坂」の名の由来については、
①猪鼻湖に到る坂道説
②式内・猪鼻湖神社に到る坂道説
③猪鼻駅に到る坂道説
がある。

■吉田東吾『大日本地名辞書』「猪鼻郷」
○今、白須賀町、並びに新居町の中なるべし。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2937058/331

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 猪鼻湖神社→猪鼻湖神社+諏訪神社→猿田彦神社

 式内・猪鼻湖神社(ご祭神:猿田彦命)は湖岸にあり、何度も倒壊したので、高台に移転したという。そこに諏訪神社が建てられ、現在は、猿田彦神社として分離されている。

4.式内小社・大神神社

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 式内小社・大神神社は、式内大社・大神神社(奈良県桜井市三輪)の分社で、吉田家のお墨付きを得て遠江国二宮となり、現在は「二宮神社」と称している。以前は松山海岸にあった(現・神明宮)が、中之郷城主の屋敷があった山の頂上の「産土大神之宮跡」碑の場所に遷座したが、今は中腹の屋敷跡にある。

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■短蛇様


 短蛇様は、実態は蛇神で、白蛇とも丹蛇(赤蛇、海蛇)ともいう。
 元は短蛇山清源院(新居町中之郷三ッ谷)の裏山(新居町中之郷城之前)に「楠御前太郎社」としてあったというが、神仏分離で大神神社(二宮神社)に遷された。
 

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 現在、山頂には摂社(城之前にあった太郎社、役出にあった白山社、殿ヶ谷にあった社宮寺社を合祀)がある。

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 楠御前社は、太郎社と切り離されて末社・楠神社となっている。

■大神氏


 式内大社・大神神社の宮司の宗家を「大神氏」、一族を「神氏(三輪氏、美和氏)」という。大神神は軍神であり、大神神社がある場所は軍事的に重要な地点だという。(新居は大和政権の東端、東国の出入り口である。)

■鈴木正信「大神氏の分布とその背景」
遠江国浜名郡には、大神郷があり(『和名抄』遠江国浜名郡条)、大神神社が鎮座し(『延喜式神名帳』遠江国浜名郡条)、さらに神人・神人部などの分布が確認できる(天平十二年(七四〇)「遠江国浜名郡輸租帳」)。こうした事例から類推するならば、現状では地名しか確認できない場合でも、古代には大神氏の関係氏族が居住しており、そのために郷や里の名称に「大神」や「美和」などが採用されたと考えられる。神社についても、池辺彌氏が指摘しているように、大神氏とは無関係の人々が勧請したのではなく、当該地域に居住した大神氏関係氏族によって奉祭されていたと見ることができよう。
 では、こうした氏族は、いかなる経緯で各地に分布するに至ったのであろうか。この点について先行研究では、特に神社の分布を手がかりに検討がなされてきた。阿部武彦は、ヤマト王権が東国・西国に進出していく際、さらには朝鮮半島への出兵など対外交渉を行う際に、大三輪神を奉じて各地の勢力の平定が進められ、それにともなって大神氏関係氏族も地方に分布するようになったと述べている。また、和田萃氏は、大三輪神が「軍神」としての神格を有していることを指摘した上で、ヤマト王権が特に東国へ勢力を伸張していく際に、この「軍神」としての大三輪神が各地に勧請されていったと論じている。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8733087

 式内大社・大神神社の初代宮司は、河内国茅渟県陶邑(すえむら。後の東陶器村)の大田田根子である。ということは、大神氏/神氏は須恵器(すえき)の製造が得意だったと思われる。湖西市の古窯は、大神氏/神氏の指導によるものであろう。湖西市は、窯が1000基以上ある窯業地域で、須恵器の運搬(物流)により、万葉時代には浜名湖の北(三ヶ日)を通っていた東海道が、南(新居)を通る道に変更されたという。(それに伴い、猪鼻駅も湖北から湖南に、名前を変更しないまま、移動したという。)

※「湖西窯跡群について」
https://www.city.kosai.shizuoka.jp/soshikiichiran/kanko/1_2/10358.html

現在も「浜名湖西焼」はある。
「湖西土」は「耀変天目茶碗」の再現に向いているという。

※「湖西焼」
http://kosai-city.net/kosaiyaki/

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