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第18回の再放送を観た。

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 『鎌倉殿の13人』は、どこまでが史実で、どこからが創作なのかよく分からない。
 たとえば、鎌倉で源頼朝が平宗盛に会うシーン━━普通に対面すればいいのに、御簾越し━━しかも、御簾の向こうに源頼朝以外にも人が・・・これは笑うシーンなのか?

■『吾妻鏡』「元暦2年(1185年)6月7日」条
 元暦二年六月大七日戊午。「前内府近日可歸洛、可面謁歟」之由、被仰合因幡前司。是、本三位中將下向之時、對面給之故也。而廣元申云。「今度儀、不可似以前之例。君者鎭海内濫刑、其品已敍二品給。彼者過爲朝敵、無位囚人也。御對面之條、還可招輕骨之謗」云々。仍被止其儀、於簾中覽其躰。諸人群參。
 頃之、前内府(着淨衣。立烏帽子)出于西侍障子之上。武藏守、北條殿、駿河守、足利冠者、因幡前司、筑後權守、足立馬允等候其砌。二品以比企四郎能員、被仰云、「於御一族、雖不存指宿意、依奉勅定、發追討使之處、輙奉招引邊土。且雖恐思給、尤欲備弓馬眉目」者。能員蹲居内府之前、述子細之處、内府動座、頻有諂諛之氣、被報申之處又不分明。只「令救露命給者。遂出家求佛道」之由云々。
 是爲將軍四代之孫、武勇禀家、爲相國第二之息、官祿任意。然者、不可憚武威、不可恐官位。何對能員可有礼節哉。死罪更非可被優于礼歟。觀者彈指云々。

(元暦2年(1185年)6月7日。源頼朝は、「前内府・平宗盛が近日中に京都へ帰るが、対面しておいた方がいいか?」と中原広元に相談した。それは、平重衡の時には対面したからである。でも、中原広元が言うには、「今回は前回とは異なる。源頼朝は、日本国の反乱を鎮め、位も従二位に上がっている。平宗盛は朝敵になり、(官位を剥奪された)無位無官の囚人である。対面することは、身分をわきまえない軽率な行為だと、批判を受けるであろう」と。それで源頼朝は対面はやめ、(穢れが移らないように)御簾越しに平宗盛を見た。諸人(御家人達)が(一目見ようと、見物に)集った。
 暫くして、平宗盛(白の狩衣を着て、立烏帽子を被っていた)が、西の侍所の縁側から障子のある部屋の中へ上がって来た。大内義信、北条時政、伏見広綱、足利義兼、大江広元、藤原俊兼、足立遠元が、平宗盛の両側に居並んだ。源頼朝は、比企能員を通して言うには、「平家の一族に対しては、深い恨みは無いけれど、後白河法皇からの命令を受けて、平家追討の使いを出陣させたら、辺鄙な鎌倉へ招く事になってしまった。(前の内大臣を招き入れるとは)恐れ多いことではあるが、武士としての面目は立った」と。比企能員が平宗盛の前に蹲居(そんきょ)して、細かく話し聞かせると、平宗盛は動座(相手に対する敬意を表すために座席を離れて礼をすること)し、頻りに諂諛(てんゆ。人の気に入るよう媚びへつらうこと)しながら、何か言っているが、はっきりしない。ただ「この命を救っていただけたら、出家をし、仏の道に進む」とか。
 この平宗盛は、平氏四代忠盛の孫にあたり、武勇の家に生まれ、しかも平淸盛の二男として、官位も領地も望みのままであった。だから、武力のある侍を臆することも、官位を持つ人を恐れることもないのに、なぜ比企能員に礼儀を尽くす必要があるのか。死罪と決まっているのに、今更、礼儀を尽くしても仕方ないじゃないかと、見る者は、指を弾いた(ブーイングした)という。)

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 『吾妻鏡』の記述が史実だとすると、『鎌倉殿の13人』の「御簾越しに見た」「御家人たちが集った」というのは史実に沿っており、平宗盛が淨衣(じゃうえ。白い布や絹で仕立てた「狩衣(かりぎぬ)」)ではなく、青い着物を着ていたことや、縁側から部屋に入らず、庭にいたことは創作となる。

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