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2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(第6回)「悪い知らせ」のラストシーンの謎

ラストで「源頼朝の鎌倉入り」の立役者・上総広常が登場した。
庭に白X黒と黒の鶏がいる広常館に上総広常が帰ってきて、
「平家の犬共め。口ほどにも無い」(上総広常)
と言い、鎧を脱ぎながら、源頼朝の手紙を握り潰した。
「上総広常━━頼朝の運命は今、この男の肩にかかっている」(ナレ)

謎① 広常館の庭に、なぜ鶏がいたのか?
謎② 上総広常は、何をして帰ってきたのか?
謎③ 上総広常は、なぜ源頼朝の手紙を握り潰したのか?

謎① 広常館の庭に、なぜ鶏がいたのか?
謎② 上総広常は、何をして帰ってきたのか?
謎③ 上総広常は、なぜ源頼朝の手紙を握り潰したのか?

<私の回答>

①「当時の東国武士は大規模農業経営者に近い存在で、田畑が見渡せる土地に質素な館を建てて、侵入者から土地を守るのが最大の役目であった」(上の動画)ということを示すための演出。

奥の白X黒の鶏が「小国(しょうこく)」、手前の黒い鶏が「唐丸(とうまる)」、3匹目の茶色いのが「薩摩(さつま)」かな。どれも『日本書記』や『古事記』に登場する「尾長鳥」同様、「日本鶏」である。
https://jpn-psa.jp/kakin/
https://zennikei.jimdofree.com/
用意したのは、スタッフロールによれば、遠州浜松日本鶏保存会である。
・会長  小栗信利(静岡県浜松市北区三方原町)
・事務局 佐竹満治(静岡県浜松市中区高丘西1丁目)

なお、広常館の位置は不明。次の3説がある。
・千葉県いすみ市下布施・上布施~御宿町上布施(『房総志料』)
・千葉県東金市松之郷新山~城坂の新山城
・千葉県長生郡一宮町一宮の一宮城(『千葉大系図』)

②上総広常は、「平家の犬共」(平家方の武士)と戦ってきた。

9月4日   安西景益が参向する。
9月9日   千葉常胤が参向する。
9月17日 千葉常胤、下総国府に侵攻し、目代を討ち取る。
9月19日 上総広常が参向する。

 9月17日、源頼朝は、上総広常の参向を待たずして、300人を率いて上総国を通り、下総国の国府へ行くと、千葉常胤隊300人が加わって、総勢600人になった。
 ここで不思議なのは、上総国を何事も無く素通りしていることである。『吾妻鏡』には千葉常胤はすぐに臣従したが、日和見主義者の上総広常はなかなか臣従しなかったという。(9月9日、千葉常胤は参向したが、同日夜に上総広常へ遣わした和田義盛が帰参し、上総広常は「談千葉介常胤之後可參上之由」(千葉常胤に相談した上で源頼朝に参向する)と言ったと復命し、10日後の9月19日になって、ようやく上総広常が参向した。)
 とはいえ、上総国を何事も無く素通り過ぎることが出来たというのは、既に上総広常が源頼朝に臣従していて、上総国の国府に侵攻し、目代を討ち取って、上総国の平氏勢力を一掃していたからだと考えるのが自然であり、『源平盛衰記』には『吾妻鏡』の記述は逆で、千葉常胤は、上総広常に相談した上で源頼朝に参向したとある。
 また、九条兼実の日記『玉葉』「治承4年(1180年)9月11日」条に「上総国住人、介八郎広常、並びに足利太郎〔故利綱子云々〕等与力。其の外、隣国有勢之者等、多以与力、還欲殺景親等了之由、去夜飛脚到来」(「上総広常と足利忠綱らが与力した。その他、隣国の有力者の多数が与力し、(源頼朝は、大庭景親の本拠地・相模国へ)取って返して大庭景親等を殺そうとしている」と昨夜、飛脚が来て伝えた)とある。9月11日に京都の公家が飛脚便で上総広常の与力を知ったということは、上総広常の参向は9月11日よりも前だということになる。「但し実否を知り難し」(ただし、伝聞であるので真偽不明)としてはいる。

■『玉葉』「治承4年(1180年)9月11日」条
(前略)伝聞、近曽、為追討仲綱息〔案住関東云々〕遣武士等〔大庭三郎景親云々。是禅門私所遣也〕而件仲綱息迯脱奥州方了。然之間、忽ち頼朝之逆乱出来、仍て合戦之間、逐篭頼朝等於筥根山了。因茲被落之由、風聞歟。而其の後、上総国住人、介八郎広常、並びに足利太郎〔故利綱子云々〕等与力。其の外、隣国有勢之者等、多以与力、還欲殺景親等了之由、去夜飛脚到来。事及大事云々。但実否難知。如此事、浮説端多歟。(後略)

伝え聞くところによると、「少し前、(「以仁王の乱」の首謀者・源頼政(伊豆国の知行国主)の嫡男である)源仲綱(伊豆国の国守)の息子(関東地方に住んでいるらしい)を追討するために武士(大庭景親等。是れは平禅門(平清盛)が私兵として派遣した)を(伊豆国へ)派遣した。しかし、件(くだん)の源仲綱の息子(次男)・源有綱(伊豆国の目代)は、奥州へ逃げたという。然る間に、源頼朝は突然挙兵し、合戦となったが、(大庭景親は、)源頼朝らを箱根山に追い込んだ(「石橋山の戦い」)。これにより源頼朝が逃走したというのは噂か? こうした後、上総国に住む上総広常と足利忠綱(亡くなった足利利綱の子という。平家方であり、以仁王&源頼政を追討したが、恩賞への不満から本拠地である上野国へ帰り、この時は一時的に源頼朝に臣従していたと考えられる)らが与力した。その他、隣国の有力者ら多数が与力し、(源頼朝は、相模国へ)取って返して大庭景親等を殺そうとしている」と昨夜、飛脚が来て伝えた。(もし本当であれば)これは大事件である。ただし、伝聞であるので真偽不明である。というのも、この話のような浮説(根拠の無い噂話)が多いからである。

③上総広常は、字の読み書きが出来なかったという。 

 「読まなくても分かる。『臣従せよ』との書状であろう」と思い、源頼朝に臣従するつもりはないので読まなかった、ともとれるけどね。

 ちなみに『鎌倉殿の13人』の北条政子は、「以仁王の令旨」(漢文)を「全く読めない」としたが、源頼朝の手紙(漢字仮名交じり文)は読めていた。史実の北条政子は、読み書きが出来、中国の書物も読めたという。


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