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源頼朝&義経兄弟の仲違いの原因(1)「腰越状」以前

「九郎義経、無断任官した上、未だ官位を返上せぬこと許しがたし。九郎は兼ねてより、公私のけじめを恐れず、それは饒舌にすがる気風からも伺える。よって、鎌倉へは入れぬ」(2005年NHK大河ドラマ『義経』)

※2005年NHK大河ドラマ『義経』:原作は宮尾登美子『宮尾本 平家物語』『義経』。脚本は金子成人。源義経=滝沢秀明、弁慶=松平健、静御前=石原さとみ、源頼朝=中井貴一、北条時政=小林稔侍。

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 ━━源義経と源頼朝の兄弟喧嘩はいつ始まったのか?

 源義経と源頼朝の兄弟喧嘩の1つの峠が「腰越状」であろう。
 源義経は、平宗盛らを護送して下向し、鎌倉に入って源頼朝に会ったが、会話は挨拶程度で追い返され、その後、鎌倉に入れてもらえなかったので、源頼朝に起請文を送るも許されず、最後の手段として、源頼朝の側近にして策略家である中原(後の大江)広元に仲介を求めて愁訴状「腰越状」を書いて送ったという。

疑問①:会話は挨拶程度で追い返されたのか?
 「腰越状」では対面すらなかったとあるが、『吾妻鏡』の5月19日条には、源頼朝が京都とその周辺の暴徒の鎮圧策を指示したとある。これに先立って京都を守る検非違使・源義経と鎌倉で作戦会議をしなかったとは、考えにくい。

疑問②:源頼朝は「腰越状」を読んだか?
 2005年NHK大河ドラマ『義経』では、源頼朝が「読まねば良かった」と言っているが、「腰越状」は、中原広元宛の手紙であり、「源頼朝に「謀反は無い」と神々に誓う起請文を(中原広元経由で)数通送ったが、未だ許されていない。「神の国」日本にあって、神以外に頼める者はいないが、貴殿(中原広元)の広大なる御慈悲による秘策で(源頼朝の)誤解を解いていただき、私(源義経)が放免されれば(許されれば)」という依頼状であって、中原広元が源頼朝に読ませるはずがないし、中原広元が「源義経からこんな手紙が来た」と源頼朝に見せれば、源頼朝と源義経の仲が悪くなる事は必定である。

※源義経の「腰越状」
・「雖書進數通起請文、猶以無御宥免。其我國神國也。神不可禀非礼。所憑非于他。偏仰貴殿廣大之御慈悲、伺便宜令達高聞、被廻秘計、被優無誤之旨、預芳免者」(『吾妻鏡』)
・「数通の起請文を書き進ずと雖も、猶以て御宥免なし。夫我が国は神国なり。神は非礼を享け給ふべからず。憑む所他に有らず。偏へに貴殿広大の御慈悲を仰ぎ、便宜を伺ひ高聞に達せしめ、秘計を廻らして、誤無き旨を宥ぜられ、芳免に預からば」(『義経記』)
https://note.com/sz2020/n/n99b9aae47a0b

 中原広元は、 源頼朝と源義経の仲が悪くようにしむけた策略家で、土佐坊昌俊(源義朝の郎党・渋谷金王丸常光?)による「堀川館襲撃」(源義経暗殺未遂)の黒幕とされる人物である。源義経が「腰越状」を中原広元ではなく、三善康信に送っていたら、事態は変わっていたかもしれない。

 さて、源義経が「腰越状」を書いた時点で、源頼朝&義経兄弟の仲違いはかなり進展していたと思われる。

 ━━源義経と源頼朝の兄弟喧嘩の発端はいつか?

1.源頼朝&義経兄弟の仲違いの原因

俗説:梶原景時の讒言  :元暦2年(1185年)4月21日
旧説:検非違使自由任官 :元暦元年(1184年)8月6日
新説:伊予守受領    :元暦2年(1185年)8月16日

(1)旧説と新説


 旧学説では、元暦元年(1184年)8月6日の源義経の「検非違使自由任官」(源義経が源頼朝の推挙無しに検非違使に任官したこと)を兄弟喧嘩の原因としていたが、現学説では、「その段階では、まだ仲がよかった」として、「検非違使自由任官」の1年後の元暦2年(1185年)8月16日の「伊予守受領」を仲違いの原因とする。
 しかし、その2ヶ月前の6月13日、源義経は、平家没官領(平家領を没収して源義経に与えた土地)24ヶ所を没収されているのであるから、仲違いの原因は、それ以前に求めるべきであろう。

1184年8月  6日 源義経、源頼朝に無許可で検非違使に補任
1185年5月24日 「腰越状」
1185年6月13日 源頼朝、源義経の平家没官領を没収
1185年8月16日 源義経、「伊予守」受領

 「腰越状」には、「平家を倒したのは、父・源義朝の霊の鎮魂のためであり、検非違使任官を受け入れたのは、源家にとって名誉なことであるからであり、どちらも自分のためではない」とあることから、源頼朝の怒りの原因は、平家を倒したこと(源頼朝は平家の滅亡ではなく、衰退を望んでいたという)と、検非違使自由任官の2つらしいことが分かる。どちらもコミュニケーション不足による喧嘩であり、今のようにスマホがあったら、兄弟喧嘩は起こらなかったと思われる。

(2)俗説


 俗説では、「源平合戦の作戦会議で源義経と梶原景時が争い、怒った梶原景時が源頼朝に「作戦を無視した」と讒言した」とする。
 『鎌倉殿の13人』では、源平合戦の作戦会議で源義経と梶原景時は争うも、梶原景時は、「悔しいが、源義経の作戦の方が正しい」と認め、源頼朝に「源義経は人情に欠ける」と讒言していた。『鎌倉殿の13人』の梶原景時は、「戦の天才・源義経と、政治の天才・源頼朝が並び立つことはなく、将来的なことを考えると、政治の天才の側につこう」と考えての讒言だとする。なお、「将軍が2人いてはならない」というのは、中原広元の考えである。

■『吾妻鏡』「元暦2年(1185年)4月21日」条
 元暦二年四月小廿一日甲戌。梶原平三景時飛脚自鎭西參着。差進親類。獻上書状。始申合戰次第。終訴廷尉不義事。其詞云。<中略>又曰、「判官殿ハ、爲君御代官、副遣御家人等、被遂合戰畢。而頻雖被存一身之功由、偏依多勢之合力歟。謂多勢、毎人不思判官殿、志奉仰君之故、勵同心之勳功畢。仍討滅平家之後、判官殿形勢、殆超過日來之儀。士率之所存、皆如踏薄氷、敢無眞實和順之志。就中、景時爲御所近士、憖伺知嚴命趣之間、毎見彼非據、「可違關東御氣色歟」之由、諌申之處、諷詞還爲身之讎、動招刑者也。合戰無爲之今、祗候無所據、早蒙御免、欲歸參」云々者。
 凡、和田小太郎義盛与梶原平三景時者、侍別當所司也。仍被發遣舎弟兩將於西海之時、軍士等事爲令奉行、被付義盛於參州、被付景時於廷尉之處、「參州者、本自依不乖武衛之仰、大少事示合于常胤、義盛等。廷尉者、挿自專之慮、曾不守御旨、偏任雅意、致自由之張行之間、人々成恨、不限景時」云々。

(元暦2年(1185年)4月21日。梶原景時の飛脚(伝令)が九州から到着した。親類の人を(大倉御所へ)遣って、手紙を(源頼朝に)献上した。その手紙には、前半には合戦の経過が書かれ、後半には廷尉(源義経)の不義(自分勝手な行動)の訴えが書かれていた。その文面は次のようなものである。(前半略)また、後半には、「判官殿(源義経)は、源頼朝の代官として派遣され、(源頼朝が)御家人を貸し与えたので、勝てたのである。(源義経は)自分ひとりの手柄だと主張しているが、多くの武士が力を合わせたから、勝てたのではないか。多くの武士は源義経に従っておらず、源頼朝を慕っているから、力を合わせて手柄を立てようと頑張ったのである。それなのに、平家を滅ぼした後の源義経の態度は、豹変し、目にあまる。武士は薄い氷の上を歩くようにビクビクし、心から従っている者はいない。特に梶原景時は、源頼朝の側近として、真の目的を知っているので、源義経の非行を見るたびに、「源頼朝の気持ちに反しているのではないか」と諌言すると、その言葉がかえって仇となり、ともすれば無礼打ちされそうになる。合戦が無事に終わった今、そばにいる意味がないので、早くご免蒙り(軍奉行の任を解かれて)、(鎌倉へ)帰りたい」と書かれていたという。
 そもそも、和田義盛と梶原景時は、侍所の別当(長官)と所司(副長官)である。それで、源頼朝が、(源範頼と源義経の)2人の弟を将軍として西国へ出陣させる時に、軍奉行として、和田義盛を參河守(源範頼)に付け、梶原景時を廷尉(源義経)に付けた処、「源範頼は、源頼朝の命令に背かず、大きな事から小さな事まで、千葉常胤や和田義盛と相談した。源義経は、自分の意見を優先して、源頼朝の命令を守らない。ただ自分の考えで、自由奔放に行動するので、皆、源義経を恨み、恨んでいるのは梶原景時ばかりではない」という。)
■『吾妻鏡』「元暦2年(1185年)5月4日」条
 元暦二年五月小四日丙戌。梶原平三景時使者還于鎭西云々。仍被付御書「被勘發廷尉訖、於今者不可從彼下知」。
(元暦2年(1185年)5月4日。梶原景時の使者が九州へ戻るいう。そこで源頼朝はお手紙を持たせた。その手紙には、「源義経を叱っておいたので、今は彼(源義経)の命令に従わなくてよい」と書かれていた。)

「勘発(かんほつ/かんぼつ)」の意味は、「過失を責めること」「落ち度を責め立てること」である。深読みとして「将軍職を解任したので」、さらなる深読みとして「猶子としていたが勘当(義絶)して、親子の縁を切ったので」がある。

■『吾妻鏡』「元暦2年(1185年)5月7日」条
 元暦二年五月小七日己丑。源廷尉使者(号龜井六郎)自京都參着。「不存異心」之由、所被獻起請文也。因幡前司廣元爲申次。
 而三州者、自西海、連々進飛脚、申子細、於事無自由之張行之間、武衛又被通懇志、廷尉者、動有自專計、今、傳聞御氣色不快之由、始及此儀之間、非御許容之限、還爲御忿怒之基云々。

(元暦2年(1185年)5月7日。源義経の使者・亀井重清が京都から(鎌倉に)着いた。「謀反の意志は無い」という起請文を持ってきた。前因幡守(中原広元)が取り次いだ。
 源範頼は、九州から、どんどん続けて飛脚をよこし、細かい事を報告し、事において、自由奔放に行動しなかったので、源頼朝もまた懇志(こんし。心をこめて相手に接しようとする気持。懇意)を通じていたが、源義経は、自分の判断で行動するので、今になって源頼朝が不機嫌なのを聞き知り、初めてこのような行動(注:起請文を送ること)に出たので、許されるばかりか、かえって怒りの基(種、原因)としてしまったという。)
■『吾妻鏡』「元暦2年(1185年)5月17日」条
 元暦二年五月小十七日己亥。卯剋、左典厩(能保。去七日与廷尉同日出京)到着。直被入營中、昨日極熱之間、聊有霍乱之氣、逗留之由被申之云々。
 昨日、左典厩侍後藤新兵衛尉基淸僕從、与廷尉侍伊勢三郎能盛下部、鬪乱。是、能盛沙汰駄餉之間。基淸馳過彼旅舘之前。其後所令持旅具之疋夫等進行之處。能盛引馬踏基淸所從。仍相互及諍論。此間。基淸所從取刀。切件馬鞦手綱奔行。能盛聞此事馳出。以竹根引目。射所殘之疋夫。彼等令叫喚馳騒。基淸又聞之廻駕。与能盛欲決雌雄。典厩頻抑留之。被發使者廷尉之許。廷尉又被相鎭之。無爲云々。此事典厩強雖不訴申。自達二品聽。能盛下部等成驕之條奇恠之由。御氣色甚云々。

(元暦2年(1185年)5月17日。朝の6時頃、源義経と同じ5月7日に京都を出た左馬頭・一条能保が到着し、直ぐに大倉御所に入った。昨日、暑すぎて、多少、暑気あたり(熱中症)になって、休んでいたので(到着が源義経より)遅れたそうだ。
 昨日、この一条能保の侍・後藤基清の家来が、源義経の侍・伊勢能盛の下僕(しもべ)と乱闘を起こした。これは、伊勢能盛が弁当を用意するよう指示している最中に、後藤基清がその旅館の前を走りすぎた。その後、旅の道具を担いだ人足達が通りかけたところ、伊勢能盛の引馬(替え馬)が、後藤基清の家来を踏んだので、互いに口論になったのである。後藤基清の家来は、刀を抜いて、その馬の鞦(しりがい。馬の尻から鞍にかける組み緒)や手綱を切って走って逃がしてしまった。伊勢能盛はこの騒ぎを聞いて走り出て、竹根の蟇目矢で、残りの人足達を撃ったので、人足達は叫びながら逃げ回り、大騒ぎとなった。後藤基清も、また、その話を聞いて馬を回し、伊勢能盛と勝負しようとしたが、一条能保が頻りに止め、使いを源義経の元へ行かせた。源義経も、また、これを静められ、無事に収まったという。この話を、一条能保は、源頼朝様に訴えなかったが、自然と源頼朝の耳に入った。源頼朝は、「源義経の侍・伊勢能盛の下僕の驕りは、奇恠(きかい。けしからぬこと)である」(源義経の侍・伊勢能盛の引馬が、後藤基清の家来を踏んだのが騒ぎの原因であり、伊勢能盛側が悪いが、伊勢能盛の主人(源義経)がえらそうにしているから、家臣・伊勢能盛や、その下僕に至るまでもが驕り高ぶるのだ)と大変気分を悪くしたという。)

<『吾妻鏡』1185年の記述>

4月21日 梶原景時の伝令が九州から鎌倉に到着。
5月4日   梶原景時の伝令が九州へ帰還。
5月7日   源義経、京都を出て鎌倉へ。起請文を大江広元に渡す。
5月9日   源頼朝、渋谷重助の自由任官を取り消すよう命令。
5月15日 源義経の使者・堀景光、鎌倉着。北条時政、酒匂宿へ。
5月16日 源義経が連れてきた平宗盛&清宗が鎌倉に入る。
5月17日 源頼朝、源義経の家来・伊勢能盛の争いの話を聞いて立腹。
5月19日 源頼朝、京都と周辺の鎮圧策を指示。
5月24日 源義経、「腰越状」を書く。
6月7日   源頼朝、平宗盛と御簾越しに対面。
6月9日   源義経、酒匂宿から京都へ。
6月13日 源頼朝、源義経の平家没官領24ヶ所を没収。
6月21日 源義経、平宗盛を近江国篠原宿、平清宗を野路口で処刑。
8月16日 源義経、「伊予守」を兼任。


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