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築山殿の徳川家康宛の手紙

我身こそ実の妻にて、御家督三郎ためにも母なれば、あながちに御賞翫あるべき事なリ。そのうへ吾父刑部どのは、御身故に失はれまいらせたり。其娘なれば、かたがた人にこえて、御憐みあらんとかねては思ひ侍るに、思の外引かへてかくすさめられまいらせず。郭公の一声に明安き夏の短夜だに、秋の八千夜とあかしわび、片敷袖のうたた寐に夢見るほどもまどろまねば、床は涙のうみとなり、唐船もよせぬべし。いまこそつらくあたらせ給ふとも、一念悪鬼となり、やがて思ひしらせまいらすべし。

『改正三河後風土記』

■磯田道史氏の訳文(「広報はままつ」2015年9月号)

私こそが実の妻です。家督を継いでいる三郎の母でもあります。もっとご賞玩(しょうがん)くださってもよろしいではないですか。父の関口刑部少輔(せきぐちぎょうぶのしょうゆう)は、あなたのために命を落としました。その娘である私に情けをかけるどころか、カッコウが鳴くような寂しい場所に追いやりました。床は涙の海となりましたが、唐土(もろこし)の舟も寄らないばかりか、だれ一人として私を気にかけてくれません。執念深いとお思いでしょうが、一念の慈鬼(じき)となり思いを知らせます。


 築山御前屋敷には、毎日、多くの老若男女が訪れていたと聞くが、この手紙では、誰も訪れていないように思われる。(「唐船もよせぬべし」とは、「日本人は元より、唐人医師・滅敬ですら来ない」という意味であろうか。)

 「寂しい」とだけ書けばいいものを、恨み辛みはいけません。特に最後の1文はいけません。鬼(般若)にも生霊にもなってはいけません。この手紙を読んだ徳川家康は、「いとどわづらはしく、おとましげに思ひ給ひしなるべし」(一層煩わしく、おとましく(「気の毒だ、かわいそうだ」の意の遠州弁)思った)。(『改正三河後風土記』。「おぞましさに」(怖く)とする写本もある。)

 一度壊れた男女の仲は、修復が難しい。


■『改正三河後風土記』(巻16)「築山殿凶悍付信康君猛烈の事」

 神君北の方は、今川冶部大輔義元の家人・関口刑部少輔親永が女にて、御母は義元の妹なりしかば、いまだ駿河の国府におはしませし時、義元のはからひにて北の方に定めさせ給ひし也。(中略)
 我身こそ実の妻にて、御家督三郎ためにも母なれば、あながちに御賞翫あるべき事也。其の上、吾父刑部どのは、御身故に失はれまいらせたり。其の娘なれば、かたがた人にこへて、御憐みあらんこそかねては思ひ侍るに、思ひの外引かへてかくすさめられまいらせ、郭公(ほととぎす)の一声に明け安き夏の短夜(みじかよ)だに、秋の八千夜(やちよ)とあかしわび、片敷く袖のうたた寐(ね)に夢見る程もまどろまねば、床は涙の海と成り、唐船(からふね)もよせぬべし。今こそつらくあたらせ給ふとも、一念悪鬼と成り、やがて思ひ知らせまゐらすべし。
 かく怨みの数々書きつづり参らせられしかば、浜松には、いとどわづらはしく、おとましげに思ひ給ひしなるべし、其の後は、いよいよ玉琴の緒絶えて、雲井の雁の便りさへかれがれにぞならせ給へば、築山殿には、其の恨みましてやらんかたなくぞわたらせ給ふ。
 三郎信康君の北の方は、織田右大臣殿の姫君也。(徳姫と申す。)
(後略)
https://dl.ndl.go.jp/pid/993836/1/357


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