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沢田久夫「作手のお城物語」(『続 つくで百話』より)

■沢田久夫『作手のお城物語』その二「五代貞能」

 貞能は天文6年貞勝の長子として亀山城中に生れました。貞久・貞昌・貞勝と何れも晩年の子ですが、貞能は父25歳の子で、幼名仙丸、九八郎、監物、美作守、弘治元年19歳で家をつぎました。この人の一生はまこと波瀾万丈でしたが、何といってもその圧巻は、天正元年(1573)8月20日夜の作手脱出でありましょう。
 貞能の母は家康の祖父清康の孫であった関係もあり、徳川家康に傾倒すること深く、元亀元年の武田帰属についても極力反対したが、一族中には和田出雲、助次郎定包の如く、もし聞かざれば武田に組し、宗家にも背かんという輩もあり、且つ眼前に秋山晴近勢による木和田城ヶ峯、田原牛小屋砦の落城を見ては、父貞勝の言をきかざるを得ませんでした。
──山中孤城援なし。二百の手勢焉んぞ克く武田の大軍に抗するを得んや。強いて抗して破滅を招かんより,一時彼に聴いて時節を待つに若かず」と。「藩史」は誌しています。貞能等は涙を呑んで信昌二男仙丸(仙千代)一族奥平久兵衛の女おつう(おあわ)周防勝次の男虎之助を質として、無念の膝を折りました。しかし雪辱の時期は意外に早く到来しました。上洛の志を懐いて武田信玄が、甲府を発ったのが元亀3年10月、早くも12月22日には浜松郊外三方原で徳川・織田聯合軍を粉砕し、翌4年2月には野田城を陥落させましたが、ここで破竹の進撃がとまりました。信玄の病が重ったのです。そこで上洛を断念し、帰国の途中4月12日信濃国駒場で卒去しました。世寿49。もちろんその死は厳秘に附されましたが、隠すより露るるが早しで、一月もすると信玄の死は確実とする観測が流れはじめまじた。
 信玄の後嗣勝頼は凡将ではありませんが、父信玄の大に比べれば及ぶべくもありません。奥平氏としても真剣に考慮せねばならなくなりました。奥平氏の強剛を知る徳川家康は、その武田帰属後も望みをすてず、その帰参を誘っていましたが、信玄死去の風聞が立つと一層積極的に働きかけました。そして8月20日付で「誓書、敬白、起請文之事」という文書を貞能・信昌父子に与えています。長文の上全文漢文で記されていますので、便宜上その大意を示しますと、次の通りです。
 第一条 今度中合せる縁辺のことは九月中に祝言を行う。この上は貞能信昌父子のことは善悪ともに見放さない。
 第二条 本領及び日近領、遠州の領知は残らず安堵する。
 第三条 田嶺の跡職及びその親類の知行は全部お前に当年秋から渡す。野田領も筋目次第で汝にやる。
 第四条 長篠の諸職及び親類の知行も共に渡してやる。
 第五条 別に新知行として、三河と遠州河西に三千貫をくれてやる。
 第六条 三浦跡職(これはどこか不明)も今川氏真に断って汝にやるようにする。
 第七条 信長の起請文も貰ってやる。信州の伊那も汝にやるつもりだがそれも信長に申伝えておく。尚人質のことは承知した。
 右が起請文の大要ですが、山中の小土豪に可愛いいわが娘をくれてやる。またその本領を安堵し、没収地も返還し、その上新たに三千貫の地を与える。そして今は自分のものではないが、田峯、長篠など菅沼一族の所領も全部やる。できたら信州伊那郡も与えるというのです。あと半分は空手形ですが、織田信長と肩を並べる大名の起請文としては,思いきった決断です。
 そのことは同時に家康が如何に困っていたかということで、三方原の惨敗以来兵力はがた落ち折角手に入れた遠州も、居城浜松の眼前に武田方の二俣城が厳然と峙ち、いつどうなるか知れません。本国三河でも長篠以下請城を奪われても、それを奪還する力もない。しかし何としてもこの悲境を盛り返さねばならないという決心が、家康をしてその異状な条件を、甘受させたのではないでしょうか。
 奥平氏にしてみれば全く棚ぼた式の幸運で、武田氏に従っていたとしても、多士才々の将領に伍しては芽の出る見込はまずない。それが大名徳川氏がその愛娘を与えようというのです。加えて所領も、ライバル田峯・長篠の菅沼領に加えて、新知三千貫の地をくれるというのです。家康の縁者となれば将来五万石十万石の大名になれるかも知れない。好機逸すべからずです。万一失敗しても、それで奥平の家が絶えるわけではなく、父貞勝弟常勝(貞春)は武田氏に従属しています。仮りに徳川氏が武田氏に滅されたとしても、奥平氏が滅びるわけではありません。ここは一番山を張るべしというのが、その時の貞能信昌父子の心境だったと思われます。
 貞能が内通したらしいという嫌疑をうけ、玖老瀬の武田信豊の陣営に呼び出されていろいろテストされましたが、巧みにそれを切抜け、作手に帰城しました。しかしそこには監視役甘利清吉の眼が光っており、早くも質として夫人を要求されましたが、日没を理由に延期してもらい、深夜疾風の如く一族をまとめて亀山城を脱出しました。
 この脱出は貞能一存で決せられ、父の貞勝にも子の貞昌にも相談しなかったようです。折柄外出中の貞勝は後でこれを知り、怒って武田の兵と共に追いかけましたが、鉄砲で反撃され滞っていると、古宮城の方角に火の手が上がり、銃声がしたのであわてて引返しました。こうして貞能のうった乾坤一擲の大博打は見事に成功しました。
 武田方ではこれを見通すわけはなく、21日には大挙して奥平勢の立龍る滝山城を攻めました。柵ばかりで堀もろくに堀ってない山城でしたが、窮鼠却って猫を噛むたとえ、城兵必死の反撃にあい、退却するところを、田原坂で追い討たれ、散々の敗軍となりました。悪路のため遅延していた徳川氏の援軍が続々到着したので、奥平方も勢を得て作手平に進出し、古宮城を総攻撃してこれを抜きました。息つく暇も与えず敗敵を追って赤羽根、大和田、塩瀬とつぎつぎに転戦撃破し、残敵を遠く郷外に追い抜いました。
 天正元年9月、貞能の子信昌は長篠城番となり、天正3年2月城主に進みました。一族老臣騎士60人、雑卒合せて252人を父より譲られ、別に家康より差添えられた松平景忠等150人を加えて守備することになりました。貞能は藤兵衛貞治、喜八郎信光、夏目治貞、山崎半兵ヱ、黒谷弥兵衛以下100余人を率い、家康の麾下に直参しました。
 ここに憐れを留めたのは、武田氏に質となった仙丸等3人で、9月21日門谷金剛堂に於て殺されました。戦国の慣いとはいえ無残の極みで、仙丸の墓は鳳来寺バス停の近くにあり、今も香華が絶えません。天正3年8月、一族の運命を賭けた長篠戦争に勝ち、徳川家の縁者となった奥平家は、譜代大名としての位置を確保しました。賭は見事に当たったのです。貞能は天正18年(1590)徳川氏関東移封に伴い、終生の念願が叶って、先祖の地奥平郷に近い上野国小幡2万石に封ぜられ、貞俊以来200余年の作手を去りました。晩年は太閤の相伴衆として伏見城に出仕し、牧斎と号し文事茶道に親しみましたが、慶長3年12月11日病んで波瀾にみちた生涯を終わりました。世寿62。三男一女があり、長男は信昌、次男は仙丸、三男は九十郎で天正19年上州宮崎城中で卒去年25。

■奥平氏

・本貫地は上野国甘楽郡奥平郷
・⑥定政まで甘楽郡の郡司を務めたが、⑥定政の時、鎌倉幕府が滅亡。
・⑥定政は新田義貞に従い、児玉党を率いて奮闘するも九州で討死。
・上野国では、徳川氏の先祖もそうだが、南朝遺臣は駆逐。
・⑧貞俊は外戚・山崎高元を頼って南朝遺臣の溜り場・奥三河へ移住。

奥平①氏行-②吉行-③継定-④高定-⑤満定-⑥定政-⑦定家-⑧貞俊

【三河奥平氏(三河国設楽郡作手郷)】

奥平定家-①貞俊-②貞久-③貞昌-④貞勝-⑤貞能-⑥信昌

※貞俊は、父・定家を連れて作手に来たといい、定家の墓は作手にあるが、貞俊を初代とすることが多い。

■奥平の城

 亀山城(城主・奥平貞能)──→亀穴城──→長篠城(城主・奥平信昌)
(作手城)          (滝山城)(元は長篠菅沼氏の城)
 古宮城(亀山城の奥平氏を監視する武田の城)   ↓
                        新城城

 奥平信昌は、徳川家康の長女・亀姫と結婚することになった。この時、徳川家康は、
「長篠は要地ではあるが、土地が狭小であり、永く居る所ではない。大野田付近に城を築け」
と言った。確かに当時の長篠城はボロボロ。食料庫は火矢で焼かれ(このため「長篠の戦い」は結果的に「兵糧攻め」になった)、本丸は銃痕だらけ(武田軍の鉄砲は500~1000丁と推定されている。「長篠城攻め」で撃ちまくって弾が減ったことが「設楽原の戦い」の敗因の1つだとされる。武田勝頼は、「設楽原の戦い」の後、「鉄砲1丁につき弾を200~300個用意せよ」と指示している)。長篠城の修復には時間がかかるし、新婚生活には新築の城の方が気分が良い。
 奥平信昌は、風光明媚な桜淵に新城を建てようとしたが、対岸から撃った鉄砲玉が届いてしまい「川が水堀の役目を果たさない」として郷ヶ原に建てた。

4年、三河国新城に城を築きて住す。7月、先に右府より西尾小左衛門吉次を使として、亀姫君婚儀のことを促されしにより、則これを許され、新城に入輿あり。

『寛政重脩諸家譜』「奥平信昌」
https://dl.ndl.go.jp/pid/1082714/1/493

 天正元年8月20日付「七ヶ条の起請文」を読むと、天正元年9月中に結婚する約束になっているが、『寛政重脩諸家譜』では、天正3年の「長篠の戦い」が終わり、翌天正4年に新城が完成すると、7月に縁談があって輿入れしたとある。
 なお、輿入れは12月22日とされるが、この時の輿の中は空で、既に7月に輿入れしていたという。これは、徳川家康には「駿府へ行く時に戸田氏によって奪われ、織田氏に売られた」という苦い経験があり、その経験を活かし、武田氏の襲撃に備えたのだという。

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