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『鎌倉殿の13人』(41)「義盛、お前に罪はない」の再放送を視聴

再放送を見て改めて思ったのは、
「史実と違うなぁ」
であるが、何度も書いているように、「和田合戦」について詳しく書かれた本は『吾妻鏡』と『明月記』しかなく、しかも、両書の内容は異なるので、「和田合戦」については、史実が分からず、ドラマであるし、これはこれでいいのかなとも思うが、それでも、
「史実と違うなぁ」
と思う。時代考証の3人の先生方の知識と指導力を疑ってしまう。

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・平盛綱が、北条泰時の頬をたたいたり、北条義時を「父上」と呼んでいた。ありえない。
・北条朝時が「期待されていない人間の気持ちが分かるか?」と言っていたが、北条朝時は次男だが嫡男として期待されていた。北条泰時は、長男だが側室の子なので期待されていなかった。
・北条泰時の妻が三浦義村の娘だった。→北条泰時は三浦義村の娘とは離婚し、既に再婚して子もいた。(三浦義村の娘は、佐原盛連に再嫁し、3人の子(蘆名光盛、加納(三浦)盛時、新宮時連)を産んだ。)
・全員歩兵。大将格の人が馬に乗っていない。→『吾妻鏡』には馬に乗る朝比奈義秀と、馬に乗って戦うシーンが描かれている。
・北条泰時は、北条朝時に手柄を譲った。勝手に参戦した北条朝時は蟄居を許された。→北条朝時は「和田合戦」の前に許されて呼び寄せられた。北条泰時は、手柄により、領地を得た。
・ドラマ的には「忠臣・和田義盛の妻」と名乗る巴御前とトウの一騎打ちがあれば、視聴率があがったと思う。ただ、木曽義仲の没年は1184年で、「和田合戦」は29年後の1213年であるので、アラフィフ(?)の巴御前は動きが鈍いと思われる。

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・城郭&戦国史研究家の「『鎌倉殿の13人』はどこまでが本当?意外な場面に隠された和田合戦の史実 鎌倉殿の時代(41)和田合戦に見る史実とフィクション」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/72462

日本では言論の自由が保障されているので、私のような素人はもちろん、城郭&戦国史研究家でも鎌倉時代について語れる、『歴史群像』という歴史雑誌に「鎌倉炎上! 和田合戦」という記事を書ける。プロのライターであれば、『吾妻鏡』と『明月記』を30分で読んで、「『吾妻鏡』によれば、「和田合戦」とは、・・・という合戦であるが、『明月記』には・・・とある」と、3時間もあればまとめられるであろう。ただ、「『吾妻鏡』に・・・と書いてある」と言われると、「『吾妻鏡』のどこに?」と聞き返したくなります。

>意外に細かいところが、史料の記述に即して描かれていたりします。たとえば、和田一族が大挙して御所に押しかけ、その面前を後ろ手に縛られた胤長が歩かされるシーンなどは、『吾妻鏡』の記述そのままです。

ドラマとしては、縛られていない和田胤長が登場し、和田一族に「許されたんだ!」と思わせておいて、和田一族の目の前で縛った方が、より大きな「挑発」になったと思います。

>また、ドラマでは、トウが和田一族の挙兵を急報したとき、義時は双六をしていましたね。「双六」というアイテムは、上総介広常の粛清シーンを思い起こさせます。和田義盛が自分を上総介になぞらえようとしていたことと合わせて、いかにも三谷幸喜さんが好きそうな設定に思えます。でも、義時が自邸で双六をしていて挙兵の報に接したというのは、ちゃんと『吾妻鏡』に書かれている話なのです。このあたり、史実をベースにエンタテインメントとしてストーリーを構成するやり方が、実に巧妙です。

「双六」というアイテムは、上総介広常と和田義盛を重ねるためでしょう。(和田義盛が上総介広常のエピソードを、自分のエピソードとして源実朝に語るなど、2人を重ねる伏線はいくつもあります。)
 ちゃんと『吾妻鏡』に「双六」とは書かれてはいません。『吾妻鏡』には、「于時相州有圍碁會、雖聞此事、敢以無驚動之氣、心靜加目算之後、起座改折烏帽子於立烏帽子、裝束水干、參幕府給」(北条義時は「囲碁の会」をしていて挙兵の報に接したが、(ドラマでは双六の駒を(「ちゃぶ台返し」をせずに)手で散らしたが)動揺することなく、目を数え、着替えてから御所に参じた)とあります。

>また、ドラマでは若宮大路の段葛をはさんで、泰時が和田方と戦うシーンが出てきます。『吾妻鏡』には「北条方は建物の戸板をはずして敵の矢を防いだ」という記述や、「泰時が若宮大路方面に出撃して防戦した」という記述があります。

「北条方は建物の戸板をはずして敵の矢を防いだ」という記述はどこにあるのでしょうか? 『吾妻鏡』には、和田軍が北条義時の屋敷を取り囲んだ時、北条義時は既に御所に行っており、留守番役の人々が「各切夾板以其隙爲矢石之路攻戰」( 各(おのおの)、 夾板(はさみいた)を切り、其の隙(すきま)を以て矢石之路(やせきのみち)と為して攻め戦い)とあります。北条義時の屋敷の塀の夾板を切り取って、その隙間から弓を射たり、石を投げたりしたとあります。夾板の詳細は不明でしたが、令和元年の今小路西遺跡の発掘調査で、2本の柱を立て、その間に板を挟む板塀が発見され、それが夾板だとされています。ようするに「北条方は建物の塀に狭間を作って矢を射って/石を投げて敵を矢/石で攻撃した」のであって、「北条方は建物の戸板をはずして敵の矢を防いだ」のではないと思いますよ。

1つ1つ丁寧に指摘していくと、個人攻撃だと誤解されるので、このへんで。

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