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小島蕉園『蕉園渉筆』(第1&2条)

【表紙】

蕉園遠州奇談
 此書世に伝ふる稀也(稀少本である)
蕉園渉筆(別名『蕉園渉筆』)

【序文】

文政6年癸未4月、余之始入遠州也。爾来3歳、其所見聞、不論雅俗、不問真偽、任筆而筆積為成冊子。官暇浄謄以為帰日談云。乙酉8月28日、藤彜公倫識
(文政6年(1823年)4月、代官に任じられて初めて遠江国相良へ赴任して3年(2年半では?)。その間に相良で見聞きしたことを、雅俗を論じず、真偽を問わず、筆に任せて書き続けていたら冊子になった。仕事の間に暇をみつけては、帰日(きにち。赴任先から帰ること)に相良での事を話すために(帰国後の話の種に)書いた。文政8年(1825年)8月28日、小島蕉園)

【本文】

(第1条)遠州灘 御前崎破船

【原文】 遠州有5港。曰川崎、曰相良、曰新井、曰福田、曰挂須賀。而其実非港也共、皆官船貢運所発、因有港名。勢之鳥羽、至于豆之下田、大海七十五里、無一処泊船、所謂「七十灘」、扶桑第一嶮灘也。況厩崎洋中、巉巖屹立者、五、六十、伏水底者、不知其数也。西州、上自貢運、下至賈舶、其達江都、必皆由焉。迅雨、暴風、漂於狂瀾、触悪巖、闇夜最為甚、自古、覆没、死亡之患、其余。財貨之失、不知其幾千万也。此危灘而無澳港、可謂闕典矣。

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【書き下し文】 遠州に5港有り。曰く川崎、曰く相良、曰く新居、曰く福田、曰く横須賀。而(しか)して其の実、港にあらざる也共、皆官船で貢(みつぎ)を運ぶに発する所なるに因(より)て港名有り。勢の鳥羽より、豆の下田に至る大海75里、1処として船を泊する無く、所謂(いはゆる)「70灘」、扶桑第1の嶮灘(けんたん)也。況(いわ)んや厩崎の洋中、巉巖(ざんがん)の屹立(きつりつ)は5、60、水底に伏すは、其の数知らず也。西州、上は貢を運ぶより、下は賈舶(あきんどぶね)に至る迄、其れ江都に達すに、必ず皆由あり。迅雨、暴風には狂瀾(きょうらん)して漂ひ、悪岩に触れ、闇夜は最も甚しく為す。古(いにしへ)より覆没、死亡の患ひ、其の余りあり。財貨の失ひ、其の幾千万たるか知らず也。此の危灘(きたん)にして澳港(おうこう)無し、闕典(けってん)と謂ふべし。

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【現代語訳】 遠江国には港が5港有る。すなわち、川崎港、相良港、新居港(今切港)、福田港、横須賀港の5港である。とはいえ、実は、港ではなく、年貢を船に積んで出港する場所であるので「港」と呼んでいるだけである。勢州(伊勢国)の鳥羽から豆州(伊豆国)の下田に至るまでの75里(300km)の間には、船を停泊する「港」と呼べる場所が1つも無く、いわゆる「扶桑(「日本」の別称)70灘」(海上保安庁の水路図誌に掲載されている灘は14)の中で、最も危険な灘である。特に厩崎(現在の御前崎)の沖には、海上に険しい「御前岩(おまえいわ)」が50~60(俗に75)そびえ立ち、海面下の岩の数は知れない。(「御前」は「おまえ」ではなく、「みさき(岬)」と読むのだと思うが、ここでは「御前岩(おまえいわ)」「御前崎(おまえざき)」という。)
 西国から、上りの年貢を運ぶ官船にしても、下りの商品を運ぶ商船にしても、江戸に行くには必ず、皆、遠州灘が危険であっても通らなければならない。時には激しい雨に打たれ、時には暴風に吹かれ、死にものぐるいで航行するも、闇夜の航行では特に、突き出た岩に衝突することが多い。昔から、座礁、転覆して沈没して亡くなる人が多く、財貨(積荷)を失った損失額は、計算できないほど多額である。
 このように、遠州灘は危険な灘であるのに、(遠州灘の海岸は、天竜川が運んできた砂で形成された「南遠大砂丘」(砂丘や砂浜)となっていて)澳港(「港」と呼べる入り込んだ場所)、良港が無いのが欠点である。

■参考記事
・「白羽
・大澤寺「扶桑第一の険難「厩崎」 (小島蕉園)  遠州五港

(第2条)御前崎 廐崎民異病不治

【原文】 厩崎之民、以覆没之患為利。不救其可救者、或害之故覆、奪其財貨由。此民往々致富。然天之所不容、異病不治者多云。

【書き下し文】 厩崎の民、覆没を以ての患ひを利と為す。其の救ふべき者を救はず、或ひは、害の故覆して、其の財貨を奪ふ由。此の民、往々にして致富(ちふ)。然るに天の容(ゆる)さぬ所にして、異病不治の者多しと云ふ。

【現代語訳】 御前崎の住民は、船が転覆すると儲けた。水難事故に遭った人を助けなかったり、わざと水難事故を起こして、積荷(財貨)を奪った。それで、御前崎の住民には裕福な人が多かった。とは言え、天の許す処ではなく、異病不治の人(難病の不治の病にかかった人)が多いという。

❆「御前崎に住む人には不治の病にかかった人が多い」という「奇談」の理由がなんとも・・・陸の海賊かよ。(ちなみに、小島蕉園は代官ですが、医者でもあります。)以下、こんな具合に約180ヶ条続きます。需要があれば続けますが・・・無いだろうなぁ。

【書き下し文】【現代語訳】は正確かどうか、自信ないです。自分だけ分かればいいという(江戸に帰ってする話の種の)覚書なのか、誰にも見せる気はない本(よって世に出ない稀少本)だからなのか、難解な(文法的におかしい?)文章が多い気がします。寛政12年(1800年)2月、昌平坂学問所の経史文章科を受験し、「乙」の成績を修めた人にしては・・・清書しようと思ったのかも知れませんが、書き終えた8月28日の約5ヶ月後の1月19日に病死しました。

■参考記事
・大澤寺「面白すぎる蕉園 御前崎の談 そして盂蘭盆会

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