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治水にもつくせし昌胤ここに死す

 原隼人佐昌胤(まさたね)は武田家の家臣で、「武田二十四将」の1人。

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■武田二十四将

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・秋山信友(秋山虎繁) 
・穴山信君
・甘利虎泰(「武田四天王」(一期)):戦死(「上田原の戦い」)
・板垣信方(「武田四天王」(一期))
・一条信龍
・小畠虎盛(小幡虎盛)(「武田五名臣」)
・小幡昌盛
・飯富虎昌(「武田四天王」(一期))
・小山田信茂
・高坂昌信(春日虎綱)(「武田四天王」(二期))
・三枝守友(三枝昌貞):戦死(「長篠の戦い」)
・真田幸隆(真田幸綱)
・真田信綱:戦死(「長篠の戦い」)
・武田信繁
・武田信廉
・多田満頼(「武田五名臣」)
・土屋昌次(土屋昌続):戦死(「長篠の戦い」)
・内藤昌豊(「武田四天王」(二期)):戦死(「長篠の戦い」)
・馬場信春(「武田四天王」(二期)):戦死(「長篠の戦い」)
・原虎胤(「武田五名臣」)
・原昌胤:戦死(「長篠の戦い」)

・山県昌景(「武田四天王」(二期)):戦死(「長篠の戦い」)
・山本勘助(山本菅助)(「武田五名臣」)
・横田高松(「武田五名臣」)

■原昌胤①:原昌俊の嫡男として生まれる。原氏は清和源氏頼光流土岐氏族(源氏)といわれる。(本貫地は美濃国恵那郡遠山荘原郷(岐阜県恵那市山岡町原)。下総国の千葉氏流原氏との区別の意味から「土岐原」と称した。)原家は代々武田譜代の重臣で、戦時には陣場奉行として、平時には土木技術に特技を持つ家として重きをなしていた。

■原昌胤②(原盛胤):「武田二十四将」の1人で「鬼美濃」として有名な足軽大将・「武田五名臣」原虎胤の次男として生まれる。原氏は桓武平氏良文流千葉氏族(平氏)といわれる。(本貫地は下総国香取郡千田庄原郷(千葉県香取郡多古町原)で、永正10年(1513年)、もしくは永正14年に下総国から甲斐国へ移ったという。)原昌胤①と区別するために、「甚四郎昌胤」とも呼ばれる。

※原氏:諏訪(長野県諏訪市)の原氏は神人部宿禰姓諏訪氏(諏訪神党)、原野谷川流域(静岡県掛川市)の原氏は藤原氏だという。

 原昌胤の「土岐原」は、代々武田譜代の重臣で、戦時には陣場奉行(「戦奉行」とも。本隊より先行して合戦場所を見極め、味方が有利になるよう陣を設営し、合戦中も状況によって陣形の組み直しを進言する重要な役職)を務め、上掲の「武田二十四将図」には120騎を指揮したとある。
 「長篠の戦い」設では、内藤昌豊らと中央隊の主力をなし、鉄砲に撃たれて亡くなった。(墓は信玄塚の南西約100mにあり、大正3年(1914年)、長篠古戦場顕彰会により「原隼人佐昌胤之碑」が立てられた。)

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 土木(普請)、特に治水工事に長け、有名な「信玄堤」は、原昌胤が普請奉行として16年を費やして完成させたものだという。それで「かるた看板」には「治水にもつくせし昌胤ここに死す」とある。棚牛、大聖牛、尺木牛、胴木牛、尺木垣などの牛枠類が甲斐国で戦国時代に開発され、享保年間(1716-1736)以降、諸国の治水工事に採用されたという。

◆「甲斐の治水・利水技術と環境の変化」(山梨県立博物館)
http://www.museum.pref.yamanashi.jp/pdfdata/kenkyu/hokoku10_2014.pdf

■鈴木健『東三河の史跡めぐり』
 原隼人佐昌胤は、武田譜代の重臣、代々陣場奉行の要職を努めていた。陣場奉行は、合戦場において地形を見定め、味方が有利に戦える場所を選定し、陣立ての資料を作成するのが役目である。昌胤は、戦いでは内藤隊に属し、武田軍中央隊にあり、内藤と共に西軍の奪柵を攻撃し、衆寡敵せず退いて、内藤は天王山を、原昌胤は山形高地死守し討死した。大正3年長篠古戦場顕彰会により高さ117センチ、幅90センチの「原隼人佐昌胤之碑」の諸将の碑が、信玄塚の南西の畑に建てられた。

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