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未発表記事『明智物語』

 明智光秀の一代記には、『明智軍記』(全10巻)と『明智物語』(全2巻)がある。
 『明智軍記』は版本で、楷書で書かれているので読みやすい。古本市場には滅多に出回らないが、相場は全巻セットで25万円くらいである。普通の古文書は1冊1万円なので、倍の値段だ。
 『明智物語』も楷書で書かれているので読みやすい。写本には、
・『明智物語』(昌平坂学問所→内閣文庫本)
・『明智物語』(東大本)
・『明智物語』(島原文庫本)
・『明智軍談』(慶応大本)
・『明智光秀記』(東大本)
があり、最も有名な『明智物語』(内閣文庫本)はネット公開されている。

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【翻刻】遠州伊井ノ谷崩之事
爰ニ遠州ノ側ニ伊井ノ谷金指冨部愛
宕岩奥山中野トテ六ヶ所ハ一続トモ
寄合領知シテ居タリケル伊井谷ハ
家康公ノ御手ニソ属シケル是当時
伊井ノ侍従ノ祖也中野ハ伊井谷ニ
付金指モ家康公ニ付ケル所二愛宕
岩ノ上村奥山ノ主馬冨部ノ小太郎
此三人ハ誰カ手ニモ不可シテ家康
公ト勝頼ト合戦シテ度コトニハ野伏
トモヲ駈集メ弱ミヲ見テハ横鑓ヲ入
テ突崩シ遠州甲州両方ヘノ敵対数
度ニ及ヒケル有時勝頼ノ家来秋山(後略)

 楷書なので、すらすら読める。

【現代語訳】遠江国「井伊谷(いいのや)崩れ」の事
 この時、遠江国側の井伊谷、金指(かなさし)、冨部(とんべ)、愛宕岩(あたごいわ)、奥山、中野の6ヶ所は、一族が寄り集まって領していた。
 井伊氏は、徳川家康公の家臣となっていた。これは当時の井伊侍従の先祖である。中野氏は井伊氏に属し、金指も徳川家康公に属していたが、愛宕
岩の上村、奥山の主馬、冨部の小太郎──この3人は、誰にも属さず、徳川家康と武田勝頼の合戦の度毎に、野伏(野武士)たちを駆り集め、弱点を見つけては横槍を入れて突き崩すというゲリラ戦を、遠江国の徳川家康公に対しても、甲斐国の武田勝頼に対しても、数度しかけていた。(後略)

 現代語訳も難しくはないが、訳せればいいという訳ではない。正確に訳すことは国語(古文)の先生なら出来るが、私が読みたいのは、日本史(戦国史)の先生の訳である。

 井伊谷の井伊氏は井伊宗家であり、中野家は井伊家の分家である。共に徳川家康に属していた。金指とは、金指近藤氏のことであろうか。
 誰にも属していないフリーの「愛宕岩の上村、奥山の主馬、冨部の小太郎」の3人を私は知らない。(ご存知の方はコメント欄へ書き込んでね。)

【追記①】 井伊谷の歴史を調べなおした。井伊直虎が「井伊谷徳政令」を出して領主を解任されると、井伊谷は今川氏真の直轄領となり、井伊谷城には小野政次が城代として入ったという。しかし、小野政次の天下は短く、34日後、井伊谷は、徳川家康領となる。
 「井伊谷崩れ」の時の井伊谷は、徳川家康の家臣である「五近藤」(井伊谷近藤家、金指近藤家、気賀近藤家、大谷近藤家、花平近藤家)の井伊谷近藤家が領主であったと思われるが、『明智物語』には「伊井谷ハ家康公ノ御手ニソ属シケル。是当時伊井ノ侍従ノ祖也」とある。とはいえ、井伊谷が(井伊谷近藤氏に反発されるも)一時的に井伊氏に戻ったのは、井伊直政が徳川家康に面会して、井伊家が再興された時の事である。
 「当時伊井ノ侍従」の「当時」は、「井伊谷崩れ当時」(井伊直政はまだ侍従職に就いていない)でも、「インタビュー当時」(井伊直政は亡くなり、息子の井伊直孝はまだ侍従職に就いていない)でも、「執筆当時」(井伊直孝は侍従から左近衛中将に昇進している)でもないが、まぁ、井伊谷の領主の誤りの件も含め、ここでは「語り手(土岐定明の元家臣・森秀利)の記憶違いだ」とし、「伊井ノ侍従」は井伊直政のことだとしておこう。
 そもそも「伊井谷」ではなく「井伊谷」だし、「井伊谷崩れ」は、武田氏の武田勝頼の代の話ではなく、武田信玄の代の話である。

※『明智物語』は、遠江国新居に住む土岐定明の元家臣・森秀利(82歳)へ慶長19年(1614年)冬にインタビューした記事=聞き書きである。筆者は、「森秀利はボケていて、事の真偽、詳細については不明。とても人に見せられるものではない」としながらも、「子孫のために」と正保4年(1647年)にインタビュー記事を整理して『明智物語』を執筆した。『明智物語』は、「とても人に見せられないほど森秀利の記憶違いがある」という事を前提に読む物語である。

永禄11年(1568年)11月  9日 井伊直虎、「井伊谷徳政令」を施行。
永禄11年(1568年)12月13日 徳川家康、井伊谷へ侵攻。
天正  3年(1575年) 井伊直政、徳川家康に面会。井伊谷の領主になる。
天正16年(1588年)  4月14日 井伊直政、侍従職に任ぜられる。
慶長  7年(1602年)  2月  1日 井伊直政、病没。
慶長19年(1614年) 森秀利へインタビュー。
慶長20年(1615年) 井伊直孝、父の侍従職を相続。
正保  2年(1645年) 井伊直孝、左近衛中将に就任。
正保  4年(1647年)『明智物語』を執筆。
万治  2年(1659年)  6月28日 井伊直孝、没。

【追記②】 愛宕岩と冨部は井伊谷周辺には見当たらない。執筆後、範囲を広げて捜査した。愛宕岩は東三河、奥山は奥平の誤り(奥山家は井伊家の分家で徳川方)、冨部は東遠だと思われる。
 「遠江国側の6ヶ所」とは、「秋山虎繁の侵攻ルート上の土地を領し、秋山虎繁と戦った6人の領主」の事であろう。

・『明智物語』(内閣文庫本)
https://www.digital.archives.go.jp/file/1251805.html
・現代語訳
https://academic-post.nihon-kenkyusya.com/2021/02/05/post-4608/

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