見付三城(見付古城・見付端城・見付新城)
1.見付
見付(静岡県磐田市見付)は、鎌倉同様、三方が台地「磐田原」で、南が「入江」(大之浦。現・今之浦)であり、津波で水に浸かることがあったという。(「見付」の語源は「水浸け」である。)
西の台地が梅酢原(現・国府台)で、東の台地が上野(現・富士見台)である。遠江国の国府所在地に居城を置きたいと考えた徳川家康は、東の台地上の「城之崎城」(見付新城)を改修して入った。『どうする家康』に登場する「見付城」は、この「城之崎城」のことである。
2.「見付城」(見付古城)と「見付端城」
見付は、遠江国の国府所在地であり、国衙は守護所(鎌倉幕府下では、最初に安田義定が入った。室町幕府下では、最初に今川範国が入ったが、後には斯波氏が入った)となり、さらに要塞化して「見付城」(見付古城。現・磐田北小)としたが、兵火で使えなくなり、南側に「見付端城」(現・大見寺)が築かれるも、やはり兵火で使えなくなったので、徳川家康は、東の台地上の「城之崎城」(見付新城。現・城山球場)を改修して入った。
3.「城之崎城」(見付新城)
徳川家康は、居城として改修し、石垣以外は完成して住んでいたが(既に石垣用の石も集められていたが)、突如、浜松城を居城に変えた。(最新の研究では、徳川家康は「未完成の城之崎城からではなく、岡崎城から浜松城へ移った」のではなく、「石垣以外は完成していた城之崎城から浜松城へ移った」とする。)
そもそも、この城之崎城は、初代遠江国守護・安田義定が居館として築いたもので、後の斯波 vs 今川抗争時に城として改修されて使われたが、損傷が激しくなかったので、徳川家康が改修して居城としたという。(徳川家康としては、「徳川家康が遠江国の領主になった」と知らしめるには、国衙跡の見付古城を居城にするのがよいと考えたが、損傷が激しかったので、同じく見付にある城之崎城を居城としたのである。)
徳川家康は、掛川城攻めの時、この城之崎城や久野城を中継基地として使った。「一言坂の戦い」の日には、この城之崎城を本陣(陣城)として入ったが、結局は浜松城へ逃げ込んだ。武田信玄は、掛川城攻めの時、この城之崎城を中継基地として使ったことを褒め、実際に城之崎城を見て、「素晴らしい。浜松城もこの築城レベルであれば、浜松城攻めは無理だな」と浜松城攻めを諦めたという。
ただ頼め頼む八幡(やはた)の神風に
浜松が枝(え)は倒(たふ)れざらめや (武田信玄)
上の江戸時代(元禄時代)の城之崎城の縄張り図は、徳川家康が改修した城之崎城ではなく、武田信玄が奪って武田流に改修した城之崎城だという。
4.なぜ徳川家康は、居城を城之崎城から浜松城に変えたのか?
──改めて問う。なぜ徳川家康は、居城を城之崎城から浜松城に変えたのか?
学者によれば、『どうする家康』で描かれたように、
「そうするように織田信長から言われたから」
であり、織田信長が異見した理由には、
説①:天竜川以東は武田信玄領だから。
説②:武田信玄が東から攻めてきたら「背水の陣」になる。
説③:天竜川が増水したら食糧供給や救援できない。
があります。
※後掲の『浜松御在城記』には武田信玄の異見とあるが、織田信長の誤りでしょう。
──本当にそうでしょうか?
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