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原文&書き下し文&現代語訳&解説『三河国一宮砥鹿大菩薩御縁起』

【要約】文武天皇が病気になったので、煙厳山に住む勝岳仙人に治していただこうと、勅使を派遣したが、本茂山で道に迷ってしまった。この時、本茂山の神が現れ、事情を聞き、童子に道案内をさせたという。童子は鬼を追い払い、勅使は無事に勝岳仙人に会うことが出来た。
 勝岳仙人は鳳凰に乗って都へ行き、文武天皇の病気を治した。「お礼に何か?」と聞くと「全国に国分寺を建てて欲しい」と言って煙厳山に帰り、鳳来寺を建てた。
 勅使から今回のいきさつを聞いた文武天皇は、「本茂山の神にもお礼が必要である」として、再び勅使を派遣した。勅使が本茂山の神に「お礼に何か?」と聞くと、本茂山の神は「宮居(神社)が欲しい」と答え、衣を滝川(現在の宝川)に流した。勅使は衣を追い、漂着した場所に衣を祀った。これが砥鹿神社里宮の創始である。

現在公開されている三河国一宮・砥鹿神社の縁起書には、
①今泉能志尾家蔵本(1574年筆写)
②草鹿砥家蔵本(1653年筆写)
③権田孫兵衛蔵本(?年筆写)
④権田長太夫蔵本(1713年筆写)
がある。原本は存在しないのか、未発見なのか、公開されていない。最も古い写本は今泉家蔵本で、この記事は、その書き下し文、現代語訳、解説である。

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