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春日若宮おん祭の安曇氏

・「影向の松」:能舞台の鏡板に描かれる松のモデル
・「芝居」の語源:「芝居」の初見は鎌倉時代で「芝生に座って観るもの」の意味であったが、室町時代には芝生を柵で囲った見学席が設けられたという。
・「埒が明かない」(物事が進まないこと)の語源:若宮おん祭では、祝詞があげられた後に埒(柵)が取り払われ、中に入れるようになるのであるが、祝詞が長くて、なかなか中に入れなかったことによる。

★「細男」と「翁」

 『風姿花伝』の神道系起源神話は、「中にも、天の鈿女の尊、進み出で給ひて、榊の枝に幣を付けて、声を挙げ、火処焼き、踏み轟かし、神懸りすと、歌ひ、舞ひ、かなで給ふ。その御声ひそかに聞えければ、大神、岩戸を少し開き給ふ。国土また明白たり。神たちの御面、白かりけり。その時の御遊び、申楽の始めと云々。委しくは口伝にあるべし」と続くのだが、重要なことは「神楽」の後に「細男」が出てくる点である。
 この「細男」は一般には安曇氏の磯良の神の出現を表現したものとされているが、実に不可解な歌舞音曲で、春日大社の「おん祭」の中の「神楽・舞楽」演舞の中でも巫女舞・東遊び・田楽の次、「翁」猿楽の前に演じられるのだが、これが、実に異様な舞と音楽なのだ。
 というのも、その音曲はあえて一本調子な単調な無頓着な演奏で、異様なほど下手に聞こえる。それも、ほとんど何の技巧もなく聞こえるように、延々と繰り返すので、聴いているうちにだんだん不気味さが増してきて、終にそれは神秘不可思議が呪術か超前衛のアヴァンギャルド芸術のように超越的かつ崇高に思えてくる。まことにアヴァンギャルドでアナーキーでアブストラクトなる舞がこの「細男の舞」なのである。その超パンクさにわたしは驚嘆した。
 この舞は、安曇氏の磯良の神が顔に牡蠣などをいっぱいくっつけていて醜いので、白布で顔を隠して舞われるのだと説明されているが、そのような説明ではこの異様さは納得できない。まるで死者の舞のような不気味さである。そのような「細男の舞」が、奉納神楽類の最初の方で演じられる。
 その「細男」がアメノウズメの「神楽」の後に来る。これは、女の呪舞から男の呪舞への継承的転換を意味するものではないか。世阿弥はアメノウズメの末裔とは言えなかった。ウズメには猿女氏という宮廷の祭祀一族がいたからだ。そこで、ウズメ的神楽から次なる飛躍が必要となる。それが「細男」であった。その「細男」の呪舞が媒介となり跳躍台となって「神楽」の示扁の取れた申楽となる。世阿弥は申楽と神楽の間をどうしても「細男」に中継ぎさせねばならないと考えたのではないか。そして実際、春日大社の若宮おんまつりでは神楽系の舞と翁舞の間に「細男」の舞いが中継ぎしている。
 このような申楽の神話系譜学が『風姿花伝』の「神楽―細男―申楽」の連続性の主張には込められているのではないか。そして、それが世阿弥門の観世宗家の神話的舞となり、さらには、三輪杉に出現した秦河勝と大物主神=天照大神との連係・一体観と結びついたのではあるまいか。
 ところで、三輪山から七~八キロも南に行ったところに多武峰談山神社がある。春日大社が中臣氏・藤原氏の氏神を祀る神社であるとすれば、ここは藤原(中臣)鎌足を祭神として祀っている神社である。だが、神仏分離以前には妙楽寺といい、鎌足の墓として摂津国から遷されたと伝えられ、十三重塔が建立された。春日大社や興福寺と並び、この藤原氏ゆかりの寺院(現在は神社)は「翁」や「細男」に関しても、重要な別種の儀式と伝承を持っている。  
 「翁」については、すでに諸家により研究されてきたように、多武峰常行堂修正会には翁面をつけた摩多羅神が登場する。このことも大変興味深いことであるが、加えてそこに「細男」が登場するのだ。
 「多武峰年中行事」(談山神社文書)の九月十一日(嘉吉祭)の項に、   「御祭礼 四ヶ法用講演
   神供伝供 伶人舞楽 神馬十疋
   細男 相摸 猿楽等 様々神拝アリ
   検校三網出仕等在之皆出」
とあるのがそれである。
 この文書には「細男 相摸」とあるが、古くは人形相撲として演じされたようである。この「細男」はおんまつりにおける笛や鼓の伶人や舞人による舞いではなく、「無垢人」とも呼ばれる木像の「青農(せいのう)」で、それは特殊神饌の「百味の御食」が供えられる前に奉献されるという。このような木像人形形式の「細男」は傀儡と考えられているが、そうだとしても、それが「無垢人」と呼ばれ、また「青農」の字を宛てられていることの意味を考えねばならない。そしてこの人形形式の「細男」と世阿弥のいう「細男」はどのように関係するのかも問われねばならない。  こうして、この「細男」問題は大和申楽の発生に深く関わる中心主題となる。

鎌田東二『世阿弥ー身心変容技法の思想』(青土社)2016

★Reco説


 「細男」は安曇磯良だとされ、「翁」も安曇磯良だと考えられているが、そうではあるまい。「細男」は、安曇磯良丸であるが、「翁」は金拆命であろう。
 ついでに言えば、大阪から「亀船」(安曇氏の船はこう呼ばれていた)に乗って北九州へ向かった浦島太郎は安曇磯良であり、大阪へ帰ってきた浦島太郎は金拆命であろう。
 「細男の舞」が不気味に思えるのは、この舞が顔を隠して深夜に舞われるからではなく、安曇磯良の鎮魂の舞だからである。


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