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2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(第11回)「許されざる嘘」


治承4年(1180年)
10月20日  「富士川の戦い」
10月23日 源頼朝、相模国府(平塚市)で本領安堵と新恩給与を行う。
10月25日 源頼朝、鎌倉に戻る。
10月26日 大庭景親、片瀬川の河原で首を刎ねられる。
10月27日 源頼朝、常陸国へ佐竹征伐に向う。
11月4日 「金砂城の戦い」
11月4日   佐竹秀義、逃亡。
11月6日   佐竹秀義、花園城(茨城県北茨城市華川町花園)入り。
11月7日   源頼朝の三男・義広&十男・行家、常陸国府(石岡市)に来る。
11月8日   源頼朝、鎌倉に戻る。
11月17日 和田義盛を侍所別当に任命。
11月19日 阿野全成、長尾寺(現・妙楽寺)を与えられ阿波局と結婚する。
11月26日    源頼朝の乳母・山内尼の嘆願で、山内首藤経俊、助命される。
12月12日 源頼朝、仮御所から大倉御所へ移り、南関東軍事政権を樹立。
12月28日 平清盛、興福寺や東大寺大仏殿を焼く。
治承5年/養和元年(1181年)
1月11日   梶原景時、御家人となる。
閏2月4日 平清盛、病没。享年64。
3月10日 「墨俣川の戦い」。義円、討死。享年27。
4月7日  北条義時、源頼朝の寝所警護の11名に選ばれる。
7月14日 「養和」に改元。「養和の飢饉」。
養和2年/寿永元年(1182年)
2月15日  伊東祐親、自害。
5月27日 「寿永」に改元。
8月12日  北条政子、万寿(後の2代将軍・源頼家)を出産。

1.「鎌倉殿」の誕生

(1)新恩給与と本領安堵

■『吾妻鏡』「治承4年(1180年)10月23日」条
 治承四年十月小廿三日壬寅。着于相摸國府給、始被行勳功賞。北條殿、及、信義、義定、常胤、義澄、廣常、義盛、實平、盛長、宗遠、義實、親光、定綱、經高、盛綱、高綱、景光、遠景、景義、祐茂、行房、景員入道、實政、家秀、家義以下、或安堵本領、或令浴新恩。亦、義澄爲三浦介、行平如元可爲下河邊庄司之由被仰云々。
 大庭三郎景親、遂以爲降人、參此所。即、被召、預上總權介廣常。長尾新五爲宗、召、預岡崎四郎義實。同新六定景、被召、預義澄。河村三郎義秀、被収公河村郷、被預景義。又、瀧口三郎經俊、召、放山内庄。被召預實平。此外、石橋合戰餘黨雖有數輩、及刑法之者、僅十之一歟云々。

(治承4年(1180年)10月23日。源頼朝は相模国の国府に着いて、初めて論功行賞を行いました。北条時政、武田信義、安田義定、千葉常胤、三浦義澄、上総広常、和田義盛、土肥実平、安達盛長、土屋宗遠、岡崎義実、工藤親光、佐々木定綱、佐々木経高、佐々木盛綱、佐々木高綱、工藤景光、天野遠景、大庭景義、宇佐美祐茂、市川行房、加藤景員入道、宇佐美実政、大見家秀、飯田家義以下、ある人は本領(今までの領地)を安堵され、ある人には新恩(新しい領地)が与えられた。また、三浦義澄を三浦介に任命し、下河辺行平を元の通り下河辺庄司に任命したという。
 大庭景親は、遂に降参して、この場所(相模国府)に参上した。それで召され、上総広常預けとした。長尾為宗を召し、岡崎義実に預けられ、長尾定景が召され、三浦義澄預けとした。河村義秀は河村郷を取上げられ、大庭景義預けとなった。また、山内首藤経俊を召し、山内庄を取り上げ、土肥実平に身柄を預けた。この他、「石橋山の戦い」の敵対者は相当数いたが、死刑になったのは、僅かに10人中1人位だという。)

 『鎌倉殿の13人』では、論功行賞(新恩給与と本領安堵)を鎌倉で行ったとするが、実は相模国府(神奈川県平塚市)で行われた。
 『鎌倉殿の13人』では、前回、上総広常が山内首藤経俊を赦免し、大庭景親を処刑していた。確かに大庭景親は上総広常預けになっていたが、山内首藤経俊は土肥実平預けで、上総広常のもとにはいなかった。(大庭景親が片瀬川の河原で首を刎ねられたのは10月26日で、山内首藤経俊が源頼朝の乳母・山内尼の助命嘆願によって助命されたのは1ヶ月後の11月26日である。)
 また、この論功行賞で、北条義時は、源頼朝から江間を与えられ、以後、江間義時と名乗った。(源頼朝から江間を与えられたのは北条時政であり、北条時政が北条義時に江間を与え、北条義時を北条家別家・江間家の宗主にしたと考える方が自然である。北条時政は、嫡男・北条宗時を数ヶ月前に亡くしている。普通なら、北条義時を北条&江間を領する北条家の嫡男に指名するべきであろうが、北条時政は、嫡男を北条時房にして、北条義時を江間家宗主として、北条家から追い出したかったようである。)

(2)大倉御所

■『吾妻鏡』「治承4年(1180年)10月23日」条
 治承四年十二月小十二日庚寅。天晴風靜。亥尅。前武衛「將軍」新造御亭、有御移徙之儀。爲景義奉行、去十月有事始、令營作于大倉郷也。時尅、自上總權介廣常之宅、入御新亭、御水干、御騎馬〔石禾栗毛〕。和田小太郎義盛候最前、加々美次郎長淸候御駕左方、毛呂冠者季光在同右。北條殿、同四郎主〔義時〕、足利冠者義兼。山名冠者義範、千葉介常胤、同太郎胤正、同六郎大夫胤頼、藤九郎盛長、土肥次郎實平、岡崎四郎義實、工藤庄司景光、宇佐美三郎助茂、土屋三郎宗遠、佐々木太郎定綱、同三郎盛綱以下、供奉。畠山次郎重忠候最末。入御于寝殿之後、御共輩參侍所〔十八ケ間〕、二行對座。義盛候其中央、着致云々。凢出仕之者三百十一人云々。又、御家人等、同搆宿舘。自爾以降、東國皆見其有道、推而爲鎌倉主。所素邊鄙、而海人、野叟之外、卜居之類少之。正當于此時間、閭巷直路、村里授号、加之家屋並甍、門扉、輾軒云々。
 今日。園城寺爲平家燒失。金堂以下堂舎塔廟、并、大小乘經巻、顯蜜聖教、大畧以化灰燼云々。

(治承4年(1180年)12月12日。晴れ。風、静か。午後10時頃に前武衛・源頼朝将軍が新築の御亭(御所)への引越しの儀式「御移徙の儀」があった。大庭景義が奉行となって去る10月に事始(鍬入れ)があって大倉郷に建設をしていた。予定時刻になって、源頼朝は、上総広常の屋敷から新御所(大倉御所)へ水干を着て、甲斐国石和(山梨県笛吹市石和町)産の栗毛の馬に乗って入った。(11月17日 に侍所別当に任命されていた)和田義盛を先頭に、加々美長清が源頼朝の馬の左側、毛呂季光が右側に並んだ。北条時政、北条義時、足利義兼、山名義範、千葉常胤、千葉胤正、千葉胤頼、安達盛長、土肥実平、岡崎義実、工藤景光、宇佐美祐茂、土屋宗遠、佐々木定綱、佐々木盛綱らがお供した。畠山重忠が最尾に列した。源頼朝が寝殿に入られた後、お供の人達は侍所(柱間18間=約32.7m)に参じて2列に向かい合って座った。和田義盛はその中央に座り、「着到状」(御家人が鎌倉幕府に出仕の催促を受けて、所定の場所に到着した事を記して上申する文書)を集めたという。(その着到状を数えたところ)凡そ出仕した者は311人という。また、御家人達も同様に鎌倉に宿所や館を構えた。これ以後、東国の武士達は皆、その(源頼朝の)有り様が道理に合っているかなっていることを見て、推戴して「鎌倉の主」と認めた。(鎌倉は)元々辺鄙な地で、海人(あま。漁師)と野叟(やそう。村の老人。野翁)以外には住んでる人が少なかった。まさにこの時に、閭巷(りょこう。村里)の道を真っ直ぐにし、村や里に名前を付け、それに加えて家屋が甍(いらか。瓦葺の屋根)や門扉(もんぴ。フェンス)を並べ、軒がひしめき合ったという。
 今日、園城寺が平家のために焼失した。金堂はもちろん、堂舎(とうじゃ、どうじゃ。(「堂」は大きな家、「舎」は小さな家の意で)社寺の建物)、塔廟(とうびょう、とうみょう。仏舎利、仏像等を安置する堂塔)、並びに、大乗や小乗の経典も、顕教や密教の道具類も大略(たいりゃく。おおよそ)灰燼(かいじん。灰と燃えさし)に帰したという。)

 大倉(大蔵。「大洞」の意であろう)に建てられた御所に入る行列の先頭は侍所別当・和田義盛でいいとして、甲州馬に乗る源頼朝の両脇は、北条時政&義時ではなく、甲斐源氏の加々美長清(武田信義の弟の子)と伊豆国流人時代の恩人・毛呂季光である。

※先頭・和田義盛:先立って11月17日に侍所別当に任命されていた。
※左翼・加々美長清:小笠原長清。本貫地は、原小笠原荘(山梨県南アルプス市小笠原)。平知盛の被官であったが、平家を裏切り、「富士川の戦い」の時、源頼朝の下に参じた。治承5年(1181年)2月1日、源頼朝の仲介で上総広常の娘を妻とし、武田信光(武田信義の子)、海野幸氏、望月重隆と並んで「弓馬四天王」と称された。 父親は、甲斐源氏の加賀美遠光(武田信義の弟)。母親は、和田義盛の娘というが、年齢的に無理があり、和田義盛の妹、もしくは、三浦義澄の娘ではないかという。
※右翼・毛呂季光
:『吾妻鏡』に書かれているのは挙兵以後のことで、伊豆国流人時代の源頼朝の様子は分からないが、伝承は、私の知る限り100弱はある。「毛呂冠者」藤原季光(毛呂豊後守藤原季光)は、武蔵国入間郡毛呂郷(埼玉県入間郡毛呂山町)の住人。源頼朝の伊豆国流人時代の恩人である。その恩(下部(しもべ)らに耐えられない事があって毛呂季光の子・毛呂季綱の屋敷あたりまで逃げたところ、毛呂季綱がその下部たちの面倒を見て伊豆に送り返してくれたこと)により、「准門葉」として重んじられた。(『吾妻鏡』「建久6年1月8日」条に「此事、季光者有由緒、被准門葉之間、頗住宿得之思」とある。)

■『吾妻鏡』「建久4年(1193年)2月10日」条
建久四年二月大十日丁未。毛呂太郎季綱、蒙勸賞〔武藏國泉、勝田〕。御閑居于豆州之時、下部等有不堪事、窂籠于季綱邊、季綱殊成恐惶之思、加扶持送進豆州之間、單孤之今、此勞者可必報謝之由、被思食云々。

(建久4年(1193年)2月10日。毛呂太郎季綱は褒賞として武蔵国の泉(埼玉県比企郡滑川町和泉)と勝田(埼玉県比企郡嵐山町勝田)を与えられた。源頼朝が伊豆国に閑居していた時、下部(しもべ。召使い)にふとどきな事があり、窂籠(ろうろう。困窮)して毛呂季綱の辺りまで行った時、毛呂季綱は殊に恐れ多いことだと思い、扶持(米)を伊豆国へ送ってくれたので、今は独り身ではあるが、この親切に必ず御礼をすると、思し召されたという。)

※毛呂季光
https://www.town.moroyama.saitama.jp/material/files/group/3/P2-5_38697703.pdf

★源頼朝の家臣のランキング
①御門葉:源氏一門。
②准門葉:源氏ではないが、御門葉に準じる家柄。
③家子 :源頼朝が選りすぐった親衛隊員。「家子専一」が北条義時。
④侍  :一般の御家人。

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            ※高校日本史『詳説日本史図録』(山川出版社)

 「幕府」の定義には諸説ある。「幕府」の定義が「将軍がいる将軍府」であれば、鎌倉幕府の成立は、源頼朝が征夷大将軍に就任した1192年であるが、「幕府」の定義が「軍府」であれば、南関東軍事政権が樹立された1180年になる。

 室町幕府の「室町」の称は、室町家の花亭の敷地と今出川家の菊亭の敷地を併せて築いた「花の御所」(敷地の東を烏丸通、南を今出川通、西を室町通、北を上立売通が通っていた)に由来する。室町通に面して正門が設けられたことから「室町殿」「室町第」とも呼ばれ、足利将軍家を「室町殿」と呼ぶ時もあった。
 このように、幕府の名称はピンポイントで付けられる。一言で「鎌倉幕府」というが、これは、「室町幕府」を「京都幕府」と呼ぶようなものであり、正確には、
・大倉幕府     1180年~1225年 開設・源頼朝
・宇都宮辻子幕府  1225年~1236年 移設・北条泰時
・若宮幕府     1236年~1333年 移設・北条泰時
の総称を「鎌倉幕府」という。

※宇都宮辻子御所=若宮御所説:正門の位置が変わっただけ説。「若宮幕府」とは「若宮大路に面して御所の正門が設けられた幕府」の意である。

2.義円


 義円は、叔父・源行家が尾張国で挙兵すると参陣し、治承5年3月10日、「墨俣川の戦い」において、平家の家人・平盛綱(高橋盛綱)に討ち取られた。享年27。
 なお、『吾妻鏡』には義円が源頼朝のもとに赴いたとする記述がないため、「義円は尾張国に入り、源行家と共に行動した」とされるが、『吾妻鏡』が書き漏らしただけで、鎌倉に赴き、源頼朝の命で源行家軍に加わったのかもしれない。
 『鎌倉殿の13人』では、鎌倉に赴き、源頼朝に会うも、源義経の「許されざる嘘」により、源行家軍に加わったとした。(なお、源行家と源頼朝は、11月7日に常陸国の国府(茨城県石岡市総社)で会っている。)
※常陸国の国府
https://www.city.ishioka.lg.jp/page/page001413.html

  春日野の若菜摘みにや白妙の
          袖ふりはへて人の行くらむ(紀貫之『古今和歌集』)

(春日野(奈良県奈良市春日野町。平清盛が焼いた東大寺や興福寺がある地域)へ若菜を摘みに行くのであろうか。真っ白な着物の袖をひらめかせて人々(春日大社の巫女たち)が歩いて往くのは。)

2.源頼家


 北条政子は、2人目の子を懐妊した。源頼朝は、三浦義澄の願いにより、北条政子の安産祈願として、三浦義澄預けの伊東祐親の恩赦を命じた。しかし、伊東祐親は、この赦免を恥として自害してしまう。(伊東祐清は既に赦免されており、平家軍に加わり、「倶利伽羅峠の戦い」(寿永2年(1183年)5月11日)後の「篠原の戦い」(寿永2年6月1日)で討死したという。 )
 また、北条政子が懐妊した際、源頼朝は、安産祈願のため、鶴岡八幡宮の参道(若宮大路)の整備を行った。源頼朝が自ら陣頭指揮をし、有力御家人たちが土や石を運んで段葛(だんかずら)を作ったという。この「参道(若宮大路)の整備」は、「参道」と「産道」を掛けたもので、鶴岡八幡宮を胎内とし、その参道を太く真っ直ぐに作ることにより、ストンと生まれる「安産」を祈願したのだという。その参道は「若宮大路」と呼ばれた。若宮=源頼家であるが、若宮=仁徳天皇とすれば、若宮の父=八幡大神(応神天皇)=源頼朝となる。

※若宮大路:幅12丈(約36m)を掘り下げ、道路幅員は10丈(約30m。道幅は、大軍の進軍を阻むためや、遠近法により八幡宮が遠くに見えるよう、鶴岡八幡宮に向かうに従い徐々に狭くなっているが、鶴岡八幡宮から見ると、遠近法により同じ幅に見える)で、両脇に幅1丈(10尺。約3.03m)、深さ5尺(0.5丈。約1.5m)の濠を構え、掻き上げた土で土塁「段葛」(幅5間(約9m)、高さ1尺5寸(約45cm)の盛り土部分)を造った。(これは、地球温暖化による海進により、参道がぬかるんできたことによる。平清盛の死因にしても、地球温暖化によるマラリア説もある。)

■『吾妻鏡』「養和2年(1182年)3月15日」条
養和二年三月大十五日乙酉。自鶴岳社頭、至由比浦、直曲横而、造詣往道。是、日來、雖爲御素願、自然渉日。而依御臺所御懷孕御祈故、被始此儀也。武衛手自令沙汰之給。仍、北條殿〔時政〕已下各被運土石云々。

(養和2年(1182年)3月15日。鶴岡八幡宮の社頭から、由比ヶ浜(の大鳥居)まで、曲がっていた道を真っ直ぐにして参道を造らせた。この事は前からの願いであったが、自然と日延べになっていた。御台所(北条政子)のご懐妊のご祈願のため、この事を始められたのである。武衛(源頼朝)自ら命令した(現場監督になった)。それで、北条時政以下、各々が土や石を運んだんだという。)

 『鎌倉殿の13人』では、阿野全成が、「北条政子が男子を産むには、千鶴丸の成仏が必要で、そのためには千鶴丸を殺した伊東祐親に恩赦を与えず、殺さなくてはならない」とし、源頼朝が梶原景時に伊東祐親の暗殺を命じると、梶原景時は忠臣、いや、アサシンの善児に暗殺を命じ、善児が伊東祐親と伊東祐清を殺したとする。
 さらに、阿野全成は、「まだ千鶴丸を殺した暗殺者が死んでいないので、千鶴丸は成仏できず、生まれてきた子は短命に終わる」と予言した。あやうし善児。(ところで、善児って、何で北条宗時の袋をいつまでも持ってたの?)

※「烏蒭沙摩明王(うすさまみょうおう)変成男子(へんじようなんし)の法」:出産前に胎内の女児が変じて男児となる秘法。

※呉座勇一「歴史家が見る『鎌倉殿の13人』第10・11話」
兄弟なのに「父子」だった!? 頼朝と義経のビジネスライクな関係性
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/93435

▲本日の「13人の合議制」のメンバー(宿老)

①中原(1216年以降大江)広元(栗原英雄)
②中原親能(?)
③二階堂行政(?)  
④三善康信(小林隆):京都の出来事を手紙に書いて送る。
⑤梶原平三景時(中村獅童):侍所所司(次官)に任じられる。
⑥足立遠元(大野泰広):御所内の差配を任されている。
⑦安達藤九郎盛長(野添義弘):側近
⑧八田知家(市原隼人)    
⑨比企能員(佐藤二朗)
⑩北条時政(坂東彌十郎):生まれた娘(後の平賀朝雅室?)をあやす。
⑪北条義時(小栗旬):伊東八重にふられる。江間を与えられる。
⑫三浦義澄(佐藤B作):伊東祐親と伊東祐清を幽閉中。
⑬和田小太郎義盛(横田栄司):侍所別当に任じられる。

▲『鎌倉殿を支えた13人の重臣ガイドブック』
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/taiga/documents/taiga1201katamen1.pdf
▲『鎌倉殿の13人』
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/
▲「鎌倉殿の13人 ロケ地ガイド」
http://loca.ash.jp/show/2022/t2022_kamakura.htm

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