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『吾妻鏡』に見る建暦1212~1213年

この記事は、
①原文
②書き下し文
③NHK公式サイト掲載の要約
の3段構成です m(_ _)m

建暦2年(1212)7月8日条

①八日、壬子。彈正大弼仲章朝臣使者參着。去月廿七日、造閑院事始也。上卿光親卿并家宣、行事官人明政也。上卿事不被思食定。度々被改之。所謂、始光親治定處、次師經、遂以治定光親云々。大夫属入道、於御前讀申此状。而善信申云、適有造營事。須上臈上卿宰相弁奉之歟云々。

②弾正大弼仲章朝臣の使者参着す。去る月二十七日、造閑院の事始めなり。上卿は光親卿並びに家宣、行事は官人明政なり。上卿の事は思し食し定められず。度々これを改めらる。所謂、始めは光親治定する処、次いで師経、遂に以て光親に治定すと云々。大夫屬入道、御前に於いてこの状を読み申す。而るに善信申して云く、適々造営の事有り。須(すべから)く上臈の上卿、宰相、弁これを奉るべきかと云々。

③源仲章の使者が京から鎌倉へ到着しました。先月27日に、焼失した閑院内裏再建の事始めが行われたそうです。

建暦3年(1213)2月15日条

①十五日丙戌。天霽。千葉介成胤、生虜法師一人、進相州。是、叛逆之輩中使也(信濃國住人・靑栗七郎弟。阿靜房安念云々)。爲望合力之奉、向彼司馬甘繩家處、依存忠直、召進之云々。相州、即、被上啓此子細。如前大膳大夫有評議。被渡山城判官行村之方、可糺問其實否之旨被仰出。仍被相副金窪兵衛尉行親云々。

②千葉の介成胤、法師一人を生虜り、相州に進す。これ、反逆の輩中の使いなり。(信濃の国の住人・青栗の七郎が弟。阿静房安念と云々。)合力の奉りを望まんが為、彼の司馬の甘縄の家に向かうの処、忠直を存ずるに依って、これを召し進すと云々。相州、即ち、この子細を上啓せらる。前の大膳大夫の如き評議有り。山城判官行村の方に渡され、その実否を糺問すべきの旨仰せ出さる。仍って金窪兵衛の尉行親を相副えらると云々。

③謀反を企てる者たちの使者となっていた僧が捕らえられ、北条義時のもとへ突き出されました。義時はすぐに事情を源実朝に報告すると、大江広元らと評議を行いました。

※『北条九代記』
謀反の輩有り。和田の平太、同四郎、渋谷の六郎(畠山弟)、上野園田の七郎、渋河の六郎等なり。中将殿並びに義時を討ち、金吾将軍の次男(字千壽)を立てんと欲す。彼の廻文を信濃の国の僧阿念房これを持ち廻る時、千葉の介が被官粟飯原次郎件の僧を搦め取りをはんぬ。陰謀露顕の輩、罪科を蒙る衆の中、和田の四郎義直、同平太胤長(義盛弟)有り。彼の両人は左衛門の尉義盛が一族なり。これに依って義盛同意の疑い有り。

建暦3年(1213)2月16日条

①十六日丁亥。天晴。依安念法師白状、謀叛輩於所々被生虜之。所謂、一村小次郎近村(信濃國住人。匠作被預之)、籠山次郎(同國住人。高山小三郎重親預之)、宿屋次郎(山上四郎時元預之)、上田原平三父子三人(豊田太郎幹重預之)、薗田七郎成朝(上條三郎時綱預之)、狩野小太郎(結城左衛門尉朝光預之)、和田四郎左衛門尉義直(伊東六郎祐長預之)、和田六郎兵衛尉義重(伊東八郎祐廣預之)、澁河刑部六郎兼守(安達右衛門尉景盛預之)、和田平太胤長(金窪兵衛尉行親。安東次郎忠家預之)、礒野小三郎(小山左衛門尉朝政預之)、此外白状云、信濃國保科次郎、粟澤太郎父子、靑栗四郎、越後國木曾瀧口父子、下総國八田三郎、和田奥田太、同四郎、伊勢國金太郎、上総介八郎、甥・臼井十郎、狩野又太郎等云々。凡張本百三十余人、伴類及二百人云々。可召進其身之旨、被仰國々守護人等。朝政、行村、朝光、行親、忠家奉行之云々。此事被尋濫觴者、信濃國住人・泉小次郎親平、去々年以後企謀逆、相語上件輩、以故・左衛門督殿若君〔尾張中務丞養君〕爲大將軍、欲奉度相州云々。

②安念法師の白状に依って、謀叛の輩所々に於いてこれを生虜らる。所謂、
一村小次郎近村(信濃国の住人・匠作、これを預かる。)
籠山次郎(同国住人・高山小三郎重親、これを預かる。)
宿屋次郎(山上四郎時元、これを預かる。)
上田原平三父子三人(豊田太郎幹重、これを預かる。)
薗田七郎成朝(上条三郎時綱、これを預かる。)
狩野小太郎(結城左衛門尉朝光、これを預かる。)
和田四郎左衛門尉義直(伊東六郎祐長、これを預かる。)
和田六郎兵衛尉義重(伊東の八郎祐広、これを預かる。)
渋河刑部六郎兼守(安達右衛門尉景盛、これを預かる。)
和田平太胤長(金窪兵衛尉行親、安藤次郎忠家、これを預かる。)
磯野小三郎(小山左衛門尉朝政、これを預かる。)
この外白状に云く、信濃の国保科の次郎、粟澤の太郎父子、青栗の四郎、越後の国木曽瀧口父子、下総の国八田の三郎、和田、奥田太、同四郎、伊勢の国金太郎、上総の介八郎、甥・臼井の十郎、狩野の又太郎等と云々。凡そ張本百三十余人、伴類二百人に及ぶと云々。その身を召し進すべきの旨、国々の守護人等に仰せらる。朝政、行村、朝光、行親、忠家これを奉行すと云々。この事の濫觴を尋ねらるれば、信濃の国の住人泉の小次郎親平、去々年以後謀逆を企て、上件の輩を相語らい、故・左衛門の督殿の若君(尾張中務の丞養君)を以て大将軍と為し、相州を度り奉らんと欲すと云々。

③僧の白状により、和田義直、和田義重、和田胤長ら謀反を企てる者たちがあちこちで捕らえられました。首謀者は百三十余人、一味は二百人に及ぶようです。
事件の発端は、信濃の泉親平(親衡)が一昨年より謀反を企て、和田胤長らに声をかけていたことでした。源頼家の遺児(のちの栄実)を将軍とし、北条義時を殺害しようとしたようです。

建暦3年(1213)3月2日条

①二日癸夘。天晴。今度叛逆張本・泉小次郎親平、隱居于違橋之由依有其聞、遣工藤十郎被召處、親平無左右企合戰、殺戮工藤并郎從數輩。則、逐電之間、爲遮彼前途、鎌倉中騒動。然而、遂以不知其行方云々。

②今度の反逆の張本・泉小次郎親平、違橋に隠居するの由その聞こえ有るに依って、工藤の十郎を遣わし召さるるの処、親平左右無く合戦を企て、工藤並びに郎従数輩を殺戮す。則ち、逐電するの間、彼の前途を遮らんが為、鎌倉中騒動す。然れども、遂に以てその行方を知らずと云々。

③謀反の首謀者である泉親平(親衡)が筋違橋あたりに隠れているとのウワサがあり、捕縛に向かいました。しかし取り逃し、とうとう親平の行方はわからなくなってしまいました。

建暦3年(1213)3月8日条

①八日己酉。天霽。鎌倉中兵起之由、風聞于諸國之間、遠近御家人群參。不知幾千万。和田左衛門尉義盛、日來在上総國伊北庄。依此事馳參。今日參上御所。有御對面。以其次、且考累日勞功、且愁子息義直、義重等勘發事。仍今更有御感。不及被經沙汰。募父數度之勳功、被除彼兩息之罪名。義盛施老後之眉目退出云々。

②鎌倉中兵起の由、諸国に風聞するの間、遠近の御家人群参す。幾千万を知らず。和田左衛門尉義盛、日来上総の国伊北庄に在り。この事に依って馳参す。今日御所に参上す。御対面有り。その次いでを以て、且つは累日の労功を考え、且つは子息義直、義重等が勘発の事を愁う。仍って今更御感有り。沙汰を経らるに及ばず。父が数度の勲功に募り、彼の両息の罪名を除かる。義盛老後の眉目を施し退出すと云々。

③和田義盛が御所に参上し、源実朝と対面しました。義盛が謀反人とされた息子・義直、義重の処分のことを愁うと、義盛のこれまでの勲功に免じて、二人の罪が許されました。

建暦3年(1213)3月9日条

①九日庚戌。晴。義盛(着木蘭地水干葛袴)、今日又參御所。引率一族九十八人、列座南庭。是、可被厚免囚人・胤長之由依申請也。廣元朝臣、爲申次。而、彼胤長爲今度張本。殊、廻計畧之旨、聞食之間、不能御許容。即、自行親、忠家等之手、被召渡山城判官行村方。重可加禁遏之由、相州被傳御旨。此間、面縛胤長身、渡一族座前。行村、令請取之。義盛之逆心職而由之云々。

②義盛(木蘭地の水干、葛袴を着す)、今日また御所に参る。一族九十八人を引率し、南庭に列座す。これ、囚人・胤長を厚免せらるべきの由申請するに依ってなり。広元朝臣、申次たり。而るに、彼の胤長は今度の張本たり。殊に、計略を廻すの旨、聞こし食すの間、御許容に能わず。即ち、行親、忠家等が手より、山城判官行村方に召し渡さる。重く禁遏を加うべきの由、相州御旨を伝えらる。この間、胤長の身を面縛し、一族の座前を渡す。行村、これを請け取らしむ。義盛が逆心職而これによると云々。

③和田義盛がきょうも御所に参上。一族九十八人を引き連れて、御所の南庭に列座しました。これは甥の和田胤長が赦免されるように申請するためです。和田義盛が胤長の赦免を求めますが、胤長は首謀者のひとりであり、特に策謀をめぐらせていたため許されることはありませんでした。胤長は後ろ手に縛り上げられ、一族が列座する前で連れていかれました。

建暦3年(1213)3月17日条

①十七日戊午。陰。和田平太胤長、配流陸奥國岩瀬郡云々。

②和田の平太胤長、陸奥の国岩瀬郡に配流せらると云々。

③和田胤長が陸奥国岩瀬郡に配流されました。

建暦3年(1213)3月21日条

①廿一日壬戌。和田平太胤長女子(字荒鵑。年六)、悲父遠向之餘、此間病惱。頗少其恃。而、新兵衛尉朝盛、其聞甚相似胤長。仍、稱父歸來之由、訪到。少生聊擡頭、一瞬見之、遂閉眼云々。同夜火葬。母、則、遂素懷(年廿七)。西谷和泉阿闍梨爲戒師云々。

②和田の平太胤長が女子(字荒鵑、年六)、父の遠向を悲しむの余り、この間病脳す。頗るその恃み少し。而るに、新兵衛尉朝盛、其の聞へは甚だ胤長に相似る。仍って、父の帰り来たるの由を称し、訪い到る。少生聊か頭を擡げ、一瞬これを見て、遂に閉眼すと云々。同夜火葬。母、則ち、素懐を遂ぐ(年二十七)。西谷の和泉阿闍梨戒師たりと云々。

③和田胤長の娘・荒鵑(6歳)が、父が遠くに行ってしまったことを悲しむあまり病気となり、ついに亡くなりました。

建暦3年(1213)3月25日条

①廿五日丙寅。和田平太胤長屋地、在荏柄前。依爲御所東隣、昵近之士面々頻望申之。而今日、左衛門尉義盛、属女房・五條局愁申云、自故・將軍御時、一族領所収公之時、未被仰他人。彼地適有宿直祗候之便。可令拝領之歟云々。忽令達之、殊成喜悦之思云々。

②和田の平太胤長が屋地、荏柄の前に在り。御所の東隣たるに依って、昵近の士面々頻りにこれを望み申す。而るに今日、左衛門尉義盛、女房・五条局に属き愁い申して云く、故・将軍の御時より、一族の領所収公の時、未だ他人に仰せ附けられず。彼の地は適々宿直祇候の便有り。これを拝領せしむべきかと云々。忽ちこれを達せしめ、殊に喜悦の思いを成すと云々。

③荏柄社前の和田胤長の屋敷地について、和田義盛が女房を通して「源頼朝様の代より、一族の所領が没収された際に他人に与えられたことはない。私に与えてください」と願い出ました。この件はすぐに聞き届けられ、義盛は喜んだそうです。

建暦3年(1213)4月2日条

①二日癸酉。相州被拝領胤長荏柄前屋地。則、分給于行親、忠家之間、追出前給人・和田左衛門尉義盛代官・久野谷弥次郎、各所卜居也。義盛、雖含欝陶、論勝劣、已如虎鼠。仍、再不能申子細云々。
先日、相率一類、參訴胤長事之時、敢無恩許沙汰、剩面縛其身、渡一族之眼前、被下判官。稱失列參之眉目、自彼日悉止出仕畢。其後、義盛、給件屋地、聊欲慰怨念之處、不事問被替。逆心弥不止而起云々。

②相州胤長が荏柄前の屋地を拝領せらる。則ち、行親、忠家に分け給うの間、前給人・和田左衛門尉義盛が代官・久野谷弥次郎を追い出し、各々卜居する所なり。義盛、欝陶を含むと雖も、勝劣を論ずること、すでに虎鼠の如し。仍って、再び子細を申すに能わずと云々。
先日、一類を相率いて、胤長が事を参訴するの時、敢えて恩許の沙汰無く、剰えその身を緬縛し、一族の眼前を渡し、判官に下さる。列参の眉目を失うと称し、彼の日より悉く出仕を止めをはんぬ。その後、義盛、件の屋地を給い、聊か怨念を慰めんと欲するの処、事を問わず得替す。逆心いよいよ止まずして起こると云々。

③北条義時が荏柄社前の和田胤長の屋敷地を拝領しました。和田義盛は不満を抱いたものの、再び事情を訴えることはできなかったようです。

建暦3年(1213)5月2日条

①二日壬寅。陰。筑後左衛門尉朝重、在義盛之近隣。而、義盛舘軍兵競集。

②筑後左衛門尉朝重、義盛が近隣に在り。而るに、義盛が館に軍兵競い集まる。

③和田義盛の館に軍兵が競って集まりました。


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