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『鎌倉殿の13人』40「罠と罠」の再放送を視聴しての雑感 -和田朝盛とか-

私なら、サブタイトルは「罠と罠」ではなく、「罠と罠と」にするけどな。
罪と罰」でもいい。
・「罠と罠」:源仲章(黒幕:後鳥羽上皇)の罠と北条義時の罠
・「罠と罠と」:北条義時が次々と繰り出した罠(挑発)
・「罪と罰」:和田一族の罪。そして、和田胤長への罰が合戦へと発展。

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北条泰時「なぜ和田殿をそこまで追い詰めるのです?」
北条義時「何も分かっていない」
北条泰時「まかり間違えば戦になる・・・読めました!  読めました!  父上はそのおつもりだったんですね」
北条義時「北条の世を磐石にするため、和田殿には死んでもらう」
北条泰時「和田殿が何をしたというのですか?!」
北条義時「お前のためにやっているんだ。私がいる間はいい。けれど10年経ち、20年経ち、・・・お前の代に必ず和田一門が立ちはだかる。だから今のうちに手を打っておくのだ」
北条泰時「私のため???」
北条義時「そうだ」
北条泰時「馬鹿げています! 私は、誰とも敵対することなく安寧の世を作ります」
北条義時「口で言うのはたやすい」
北条泰時「父上は間違っている!」
北条義時「太郎、謹慎を申しつける」

この言葉は大きい。北条義時は対外的には「鎌倉のため」、家族へは「北条のため」と言っているが。実は「北条泰時のため」。
北条泰時は、「えっ? 私のため? 私のために和田を滅ぼすって、どういうこと?」と困惑していた。謹慎して、冷静にこの言葉の意味を考え、分かった時、北条泰時は覚醒するであろう。

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■ナレーション(長澤まさみ)
「義時は事実上の指導者として、将軍実朝さえ圧倒する。
その決意の固さは、怯えの裏返しなのか、義時」

北条義時は何に怯えているのか?
北条義時の事なら何でも分かる北条政子ですら分からず、「何に怯えているのです?」と聞いていた。

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 源実朝とは和歌を通して仲の良い側近・和田朝盛(和田義盛の孫)の出家の話が省略された。

■『吾妻鏡』「建暦3年(1213年)4月15日」条
建暦三年四月小十五日丙戌。和田新兵衛尉朝盛者、爲將軍家御寵愛。等倫敢不諍之。而、近日父祖一黨含恨忘拝趨、朝盛同抛夙夜長番令蟄居。以其暇之隙、逢淨遍僧都、學出離生死之要道、讀經念佛之勤修未有怠。漸催發心、今夕已欲遂素懷、存年來餘波參御所。于時將軍家對朗月、於南面有和哥御會。女房數輩候其砌。朝盛參進。献秀逸之間、御感及再往。又、陳日來不事子細、公私互散蒙霧、快然之餘、縮載數ケ所地頭職於一紙、直給御下文。月及午、朝盛退出。不能歸宅、到淨蓮房草庵、忽除髪。号「實阿弥陀佛」。即、差京都進發。郎等二人、小舎人童一人、共以出家云々。

 建暦3年(1213年)4月15日(十五夜。満月)。和田朝盛は、将軍・源実朝の寵愛を受けていた。「等倫(とうりん)敢(あ)て之(これ)を争わず」(同等の友達同士はあえて争わない)という。しかし、近日、父・和田常盛や祖父・和田義盛の一党(一族と一味同心の仲間)は、北条義時を恨み、御所や政所への出仕をしないでいる(不満を感じてストライキ(仕事放棄)をしている)。和田義盛の孫・和田朝盛も同様に、「夙夜の長番」(一日中、お側に仕える勤務)を放棄して、謹慎していた。その合間に浄遍僧都に会い、「出離生死の要道」(仏教)を学び、 「読経念仏の勤修」(お経を読んだり、念仏を唱えたりの修行)を続けていた。ようやく出家の決心がつき、今日の夕方に出家しようと思い、長年勤務した御所へ行った。丁度その時、将軍・源実朝は、朗月(満月)を見ながら、南面で和歌の会を催していた。女房(女官)が数人同席していた。和田朝盛は、前へ進み出て、優れた和歌を献上したので、将軍・源実朝は、何度も感心していた。また、最近の御無沙汰(出仕せずに蟄居していたこと)を陳述(弁明)したので、互いに疑念がとけ、喜びのあまり、数ヶ所の地頭職を一枚の紙に載せ、将軍自ら、下知した。月が南中したので、和田朝盛は、退出した。そのまま帰宅せずに、浄蓮坊の庵を訪ね、髪を降ろし、「実阿弥陀仏」と名乗り、京都へ向けて出発しました。郎党2人、小舎人の少年1人が共に出家したという。

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■『吾妻鏡』「建暦3年(1213年)4月16日」条
建暦三年四月小十六日丁亥。朝盛出家事、郎從等、走歸本所、告父祖等。此時、乍驚、自閨中求出一通書状、披覽之處、書載云。「叛逆之企、於今者定難被默止歟。雖然、順一族不可奉射主君。又、候御方不可敵于父祖。不如入無爲、免自他苦患」云々。
 義盛聞此事、太忿怒、「已雖爲法躰、可追返」之由、示付四郎左衛門尉義直。是、朝盛者殊精兵也。依時軍勢之棟梁、義盛強惜之云々。仍、義直揚鞭云々。

 建暦3年(1213年)4月16日。和田朝盛が出家したことを、郎従は本家へ走って帰って、父・和田常盛や祖父・和田義盛に伝えた。この時、驚きながら、寝間に一通の手紙があることを見つけ、すぐに見たところ、次の様に書いてあった。「反逆の企てについて、今となっては黙視することは難しい。とはいえ、一族に従えば主君に弓を引くことになる。また、父や祖父に敵対する気もない。無関係(中立な立場)になって、苦しみから逃げたいと思う」。
 和田義盛は、置き手紙を読んで大いに怒り、「既に法体と為しても、追って連れ戻せ」と和田義直に言いつけた。それは、和田朝盛が非常に優れた兵士(弓の達人)だからである。摘孫であり、北条義時との合戦では軍隊を率いる大将にしようと思っていたので、和田義盛は、和田朝盛の敵前放棄を、強く惜しんだという。それで、和田義直は、馬に鞭打ったという。

※「和田合戦」では、まず、鎌倉殿・源実朝を引き入れて、「和田義盛は鎌倉一の忠臣である。よって鎌倉殿はわれらに味方した。われらは反乱軍ではなく、官軍(幕府軍)である」とアピールする必要がある。そのためには、鎌倉殿と仲の良い和田朝盛にいてもらわないといけないのである。

■『吾妻鏡』「建暦3年(1213年)4月17日」条
建暦三年四月小十七日戊子。(中略)朝盛遁世事、今日達上聞。御戀慕無他。令刑部丞忠季、訪父祖別涙給云々。

 建暦3年(1213年)4月17日。(中略)和田朝盛が出家したことが、今日、将軍・源実朝の耳に入った。とても恋しく思った。若狭忠季を使者として父・和田常盛や祖父・和田義盛の特別な悲しみを見舞ったという。

※御戀慕(ごれんぼ)の他(ほか)無し。:源実朝が好きだったのは、北条泰時ではなく、和田朝盛か? 私が脚本家なら、早い時期から和田朝盛を出していたけどね。(私なら北条泰時とのシーンを和田朝盛とのシーンに入れ替える。)

※刑部丞忠季:若狭忠季とも、津々見忠季とも。島津忠久の弟。島津忠久と共に源頼朝の御落胤(庶子)だと自称するが、実は、2人とも、源頼朝の乳母・比企尼の長女と惟宗広言との間に生まれた子だという。とはいえ、島津氏は、源頼朝の子孫だと自称し続け、鎌倉に源頼朝の墓をたてたり、竹之下信成に「紙本金地著色和田合戦図」(「和田合戦」を描いた日本唯一の屏風)を描かせたりしている。焼香順は2番。(1番は千鶴丸の子孫。)

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■『吾妻鏡』建暦3年(1213年)4月18日条
建暦三年四月小十八日己丑。義直、相具朝盛入道。自駿河國手越驛、馳歸。仍、義盛遂對面、暫散欝憤云々。又、乍着黒衣、參幕府。依有恩喚也。

 建暦3年(1213年)4月18日。和田義直が和田朝盛(実阿弥陀仏)をつれて、駿河国手越宿(静岡県静岡市駿河区手越原)から帰ってきた。そこで和田義盛は遂に対面し、しばらく怒り続けたという。また、黒衣を着たままで、幕府に参じた(大倉御所の源実朝に会った)。それは将軍・源実朝が恩喚(おんかん。身分の高い者が目下の者を呼び寄せること)したからである。

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今回の「罠と罠」では、
①源実朝の仲介で、「和田合戦」は回避された。
②三浦義村は起請文を書かされ、裏切れなくなった。
と史実とは異なった。
 次回、史実同様、「和田合戦」は起きるのか? 三浦義村は裏切るのか?

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和田義盛が「和田合戦」に踏み切った理由は、
①甥・和田胤長が赦免されず、屋敷は没収されて流罪になったこと。
②没収された胤長屋敷は和田義盛に渡されるも変更。北条義時に渡された。
であり、最終的には息子たちが憤慨していて、抑え切れなかったことだという。息子たちが先走って出陣してしまったので、「このままでは息子たちは死罪。ならばその前に大きな花火をあげよう」といった感じか。(詳しくは明日の記事で。)

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「和田合戦」の前哨戦と位置づけられている「泉親衡の乱」について、まとめてみた。

※絵本風「泉親衡の乱」(7087文字)
https://note.com/sz2020/n/n8f01c20623c1
※『吾妻鏡』にみる「泉親衡の乱」(5084文字)
https://note.com/sz2020/n/n2dc4314df1ca

「和田合戦」については、超長文になることが分かっているので、記事を書こうか、(数十人しか読まない記事の執筆にかける時間がもったいないので)やめようか迷っている。上の「泉親衡の乱」の2つの記事にたくさん「いいね」がついたら書く予定だ。

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 そもそも、「和田合戦」の発端は「泉親衡の乱」であり、その「泉親衡の乱」が事前に発覚したのは、千葉成胤が阿静坊安念を捕らえ、北条義時のもとへ連れて行くと、阿静坊安念が和田義盛の子や甥も加担していると、ペラペラしゃべったからである。
 もし、阿静坊安念が武士であれば、千葉成胤は北条義時ではなく、侍所別当・和田義盛のもとへ連れて行ったであろう。(というか、当時、和田義盛は、鎌倉を離れて上総国夷隅郡の伊北庄にいたので、引き渡せなかった。)そうであれば、和田義盛は一族の関与をもみ消し、阿静坊安念の首を刎ねて証拠を隠滅したであろう。(阿静坊安念は四国へ流罪になっただけで済んだ。)
 北条義時が「泉親衡の乱」への和田一族の関与のことを知っていて、和田義盛が鎌倉を離れた時を見計らって千葉成胤に阿静坊安念を逮捕させたのであれば、策士だと思う。

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「和田合戦」において、三浦義村は、合戦の直前に和田義盛を裏切ったという。「直前」なので、効果は絶大で、「和田合戦」での北条義時の勝因は、三浦義村の裏切りにあったと言ってもよい。
 近年、「三浦義村は、和田義盛を倒して三浦一族の長になりたくて、「直前」ではなく「最初から」裏切っていた」という説が出された。もし、それが史実であり、三浦義村が娘に北条泰時と離婚させたのは、和田義盛に「自分は味方だ」と思わせるためなのであれば、策士だと思う。(北条義時が「比企の乱」後に比企氏の娘と離婚したように、離婚させずに、北条氏の動きを探るスパイとして使ってもよかったと思うが。)

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【クランクアップ】
「鎌倉殿の13人」クランクアップ!最終回の場面写真公開
https://www.cinematoday.jp/news/N0133208

【最終回】『鎌倉殿の13人』最終回、小栗旬が演じる北条義時の最期を歴史学者らが予想
https://news.yahoo.co.jp/articles/1104490c92db899b4f62a17f98d9ae7ef050c8c8

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