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井伊氏【掛川藩主家】

井伊直政┬直継【掛川藩主家】直好─直武─直朝=直矩【与板藩主家】
    └直孝【彦根藩主家】

 「井伊の赤鬼」と呼ばれた井伊直政を長男・直継が継いだが、「病弱」(「大坂の陣」不参陣)だとして、徳川家康は、「井伊の赤牛」と呼ばれた次男・直孝に継がせた。この井伊直孝は、正室の子ではなく、「中里小町」と呼ばれた美女の子で、しかも次男なので、当時の常識としては、出家して井伊家菩提寺の住職になるはずであるが、徳川家康が大抜擢したのは、井伊直孝が徳川家康の御落胤だからだという。(鷹狩に行って、泊まった家の娘とできちゃったという。)
 かわいそうなのは彦根城を建てて初代彦根城主となった長男・直継(近江佐和山藩主)で、「彦根井伊氏2代」とカウントされる方もおられるが、普通は除外される。近江国彦根は次男・井伊直孝の領地とされたが、井伊直継は「病弱」ではなく(井伊直継の享年は73。井伊宗家の家督を継いだ井伊直孝の享年は69であり、「井伊の赤牛」より長生きした!)、彦根藩をまとめられなかった「不器用者」というだけなので、井伊家の領地のうち、上野国安中が与えられ、「直勝」と名を変えて安中藩主となるも、
「祖父・直親が亡くなった(朝比奈氏に討たれた)掛川で菩提を弔いたい」
と言い続けた。隠居後、息子・直好が三河西尾藩主を経て遠江掛川初代藩主になると、掛川に移住し、掛川で亡くなった。

《井伊家【掛川藩主家】》

直継(①直勝)┬②直好────┬女子(早世)
       └女子         ├③直武──────┬女子(小笠原信秀室)
         (井伊直滋室)├女子(早世)    ├女子(早世)
                             ├藤蔵(10才卒)├女子(早世)
                             ├乙助(早世)    ├④直朝─────┬女子
                             └女子(早世)    ├女子(早世)  └⑤直矩
                               ├犬丸(早世)
                               ├女子(早世)
                               ├直堅(12才毒殺)
                               ├女子(早世)
                               └女子(早世)

❄井伊家【掛川藩主家】のほとんどは早世。最終的には【彦根藩主家】から直矩を迎えた。

・井伊直好の娘「芳心院春了童女」:万治2年3月21日沒(真如寺)
・井伊直武の娘「知法院殿妙幻禅童女」:延宝7年7月14日沒(真如寺)

《歴代掛川城主》

初代・朝比奈泰煕:今川義元家臣
2代・朝比奈泰能:今川義元家臣
3代・朝比奈泰朝:今川氏真家臣→小田原へ
4代・石川家成:徳川家康家臣
5代・石川康通:徳川家康家臣
6代・山内一豊:豊臣秀吉家臣(徳川家康の関東移封による)→高知へ
7代・松平定勝:久松松平家(定勝系)
8代・松平定行:久松松平家(定勝系)→伊勢桑名藩に転封
9代・安藤直次:→紀伊田辺藩に転封
10代・松平定綱:久松松平家(定綱系)→山城淀藩に転封
11代・朝倉宣正:主君・徳川忠長に連座して改易
12代・青山幸成:→摂津尼崎藩に転封
13代・松平忠重:桜井松平家
14代・松平忠倶:桜井松平家→信濃飯山藩に転封
15代・本多忠義:→越後村上藩に転封
16代・松平忠晴:藤井松平家→丹波亀山藩に転封
17代・北条氏重:龍華院を建設してアピールするも無嗣改易
18代・井伊直好:井伊直勝の長男【井伊掛川藩主家】
19代・井伊直武:井伊直好の長男【井伊掛川藩主家】
20代・井伊直朝:井伊直武の長男【井伊掛川藩主家】
21代・井伊直矩:井伊
直朝の養子【井伊彦根藩主家】→与板へ
城番・宮崎三左衛門:川井代官
城番・本多利長:横須賀城主
22代・松平忠喬:桜井松平家
・・・

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★NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」と掛川のかかわり
https://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/gyosei/docs/9684.html


井伊直継(直勝)


1590-1662 享年73:井伊直政の長男。浜松市生まれ。幼名:万千代。
近江国佐和山藩主。後に上野国安中藩初代藩主。彦根城初代城主。
戒名「雲光院殿月山了照大居士」(墓所:静岡県袋井市久能の可睡斎)
https://www.kasuisai.or.jp/

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井伊直之(直好)

1618-1672 享年55:井伊直勝の長男。安中生まれ。幼名:万千代。
上野国安中藩2代藩主。後に三河国西尾藩主、遠江国掛川藩初代藩主。

井伊直好が建てた掛川城の「玄関前大手2の門」は、現在、「目の霊山」油山寺の山門になっています。(明治維新の廃城令の際、掛川城主・太田資美が、眼病全快のお礼として油山寺に寄進した。)
https://yusanji.jp/

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戒名「大勝院殿日頼春果大居士」(墓所:静岡県袋井市久能の可睡斎)

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井伊直武


1650-1697 享年45:井伊直好の長男。幼名:菊千代、万千代。
母は形原松平家信の娘。正室は津藩主・藤堂高次の娘(安藤重之の養女)。
遠江掛川藩第2代藩主。暗愚で藩政を悪化させた。
戒名「源忠院高節元義大居士」(墓所:東京都墨田区向島の弘福寺)
https://ko-fukuji.wixsite.com/kofukuji

井伊直朝(直旧)


1680-1715 享年36:井伊直武の長男。幼名:菊千代、万千代。
母は藤堂高次の娘(安藤重之の養女)。正室は彦根井伊直興の娘。
遠江国掛川藩3代藩主。父同様、暗愚で藩政を悪化させ、「病弱」を理由に参勤交代を拒否したので、大目付・仙石久尚と目付・駒木根政方を派遣したところ、「発狂」と判断され、普通は改易であるが、「徳川四天王」井伊直政の子孫であることや、既に妻の兄弟の井伊直矩を養嗣子として願い出ていたことから、井伊直矩が家督を継ぐことを許された。
 また、弟・井伊直堅(弁之進、幻華大童子。12才)がいて、「井伊直堅に継がぜたい」と考えた家臣もいたが、井伊直堅は、掛川宿の遊女の子であったので、「身分の低い者には継がせられない」と考えた反対派により、貞享元年(1684年)10月19日に毒殺され、その結果、井伊直朝が藩主になった。(井伊直堅の墓所は、掛川市の永江院である。墓の周囲の小さな墓は、殉死した「井伊直堅に継がぜたい」と思っていた家臣たちの墓だという。)
戒名「温良院恭徳宜謙大居士」(墓所:東京都墨田区向島の弘福寺)

井伊直矩


1694-1742 享年50:彦根藩主・井伊直該の4男。彦根生まれ。
井伊直朝の養嗣子。幼名:弁之丞、万千代。
遠江掛川藩第4代藩主。後に越後与板藩初代藩主(13才)。正室は阿部正邦の女。
在任1日弱。就任した日に与板へ転封された。その後、川井代官・宮崎三左衛門、横須賀城主・本多利長が城番を務め、松平忠喬に繋いだ。
戒名「光煕院殿花岳浄桃大居士」(墓所:東京都墨田区向島の弘福寺)


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