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2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(第7回)「敵か、あるいは」


 平清盛(松平健)により、福原に軟禁された後白河法皇(西田敏行)は、平清盛から「源頼朝(大泉洋)が挙兵して伊豆国の目代を討つも、石橋山で大敗し、討死した」と大庭景親(國村隼)から報告が来たと知らされて驚く。(『源平盛衰記』によれば、大庭景親は、9月2日に早馬で、「源頼朝は石橋山で大敗し、椙山へ逃げて行方不明。坂東武者は、心の中では源氏方に傾いているのでご用心を」と、福原に報告した。追討軍の派遣が決められるが、編成が進まぬ間に、源頼朝は房総半島で千葉常胤、上総広常を味方に加えて再起を果たしてしまった。 )

■大庭景親から平清盛への報告(『源平盛衰記』「大場早馬事」
 治承四年九月二日、相模国住人、大場三郎景親、東国より早馬をたつ。福原新都に著きて上下ひしめきけり。「何事ぞ」と聞ば、「伊豆国の流人、前右兵衛権佐源頼朝、『一院の院宣、高倉宮の令旨在り』と称して、同国目代、平家の侍、和泉判官平兼隆が、八牧(やまき)の館に押し寄せて、兼隆並びに家人等夜討ちにして、館に火を懸けて焼き払ふ。同廿日、北条四郎時政が一類を引率して相模の土肥へ打ち越えて、土肥、土屋、岡崎を招き、三百余騎の兵を相具して、石橋と云ふ所に引き籠る。景親、武蔵、相模に平家に志ある輩を催し集めて、三千余騎にて、同廿三日に石橋城に押し寄せ、源氏、禦戦といへ共、大勢に打ち落されて、兵衛佐、杉山に逃げ籠りて、行方知れず。同廿四日、相模国由井小坪にて、平家の御方に、武蔵国住人・畠山庄司重能が子息・次郎重忠、五百余騎にて、兵衛佐の方人、相模国住人・三浦大介義明が子共、三百余騎、責戦といへども、重忠、三浦に戦ひ負けて、武蔵国へ引き退く。同廿六日に、武蔵国住人・江戸太郎重長、河越小太郎重頼を大将として、党には金子、村山、山口、篠党、児玉、横山野与党、綴喜等始として二千余騎、相模の三浦城を責む。三浦の一族、絹笠の城に籠りて、一日一夜戦ひて、矢種尽きて船に乗り、安房国へ渡り畢。又、国々の兵共、内々は源氏に心を通すと承る。御用心あるべし」とぞ申したる。

<大庭景親から平清盛への報告>

      源頼朝、山木館と堤館を襲撃。
8月20日 源頼朝、陣城「石橋山城」に篭城。
8月23日 「石橋山の戦い」。源頼朝、椙山に逃げ、行方不明。
8月24日 「小坪坂の戦い」(三浦 vs 畠山)。
8月26日 「衣笠城攻め」。三浦一族、安房国へ逃亡。

 しかし、その直後、平清盛は、平宗盛(小泉孝太郎)から、まずは福原遷都が早急だったと報告され、次に源頼朝が安房国に逃げたと知らされた。
「なぜそれを先に言わぬ。すぐに追討軍を送れ」
あれ?「東国の事は東国に任せよ」では? あっけにとられる平宗盛。(後に、追討軍とは「富士川の戦い」となる。)

 その頃、房総半島で再起を図る源頼朝は、房総半島の有力豪族である千葉常胤(岡本信人)と上総広常(佐藤浩市)を味方に付けようと、千葉常胤のもとへ安達盛長(野添義弘)を、上総広常のもとへ和田義盛(横田栄司)と北条義時(小栗旬)を送り込む。
 源頼朝の再起は、千葉常胤と上総広常が味方になるかどうかにかかっている。千葉常胤は即座に臣従した。参向した千葉常胤は、源頼朝に源義朝の面影を見て涙した。上総広常のもとには大庭景親の使者・梶原景時(中村獅童)も来ていた。さて、源氏と平家━━上総広常はどちら側に付くのか。

 ━━上総広常、敵か、味方か。
 ━━さらに梶原景時、敵か、味方か。

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