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『古語拾遺』ー「天の岩戸」神話ー

 阿波原理主義者(私がいう「阿波中心史観主義者」)の謎は、

──なぜ「『日本書紀』は嘘だらけ。『古事記』で考えよ」と言うのか?

です。私が阿波原理主義者なら、

──「記紀は嘘だらけ。『古語拾遺』で考えよ

と言うよ。阿波国は阿波忌部氏の地だからね。

 古代の祭祀は忌部氏が担当していたけど、中臣氏(後の藤原氏)が担当するようになった。そこで、負け組の忌部氏が、自らの正当性を説くために書いた「敗者による史書」が、『古語拾遺』だとされてきました(愁訴陳情書説)。

「神社祭礼の原型」とされる「天の岩戸開き」のシーンを『古語拾遺』でみてみましょう。


■『古語拾遺』の「天の岩戸」神話


 于時、天照大神赫怒。入于天石窟、閉磐戸而幽居焉。爾乃六合常闇、昼夜不分。群神愁迷、手足罔措。凡厥庶事、燎燭而弁。高皇産靈神 會八十萬神於天八湍河原、議奉謝之方。

 この時、天照大神は激怒して、天石窟(あめのいわや)に入り、磐戸(いわと)を閉じて幽居した(篭った)。すると、六合(りくごう。上下(天地)と四方の6方向。つまり全世界)は常闇(とこやみ。常に夜)になり、昼夜の区別がなくなった。神々は憂い迷い、手も足もでない状況であった。全ての諸々のことを、燭を灯して話し合いました。高皇産霊神は、八十万(やおよろず)の神々を「天八湍河原」(あめのやせのかわら)に集めて、(天照大神に)謝る方法を議論した。

 爰思兼神深思遠慮議曰、「宜令太玉神、率諸部神造和幣、仍、令石凝姥神 【天糠戸命之子。作鏡遠祖也】取天香山銅、以鑄日像之鏡、令長白羽神 【伊勢国麻續祖。今俗、衣服謂之白羽、此縁也】、種麻、以爲青和幣【古語   爾伎弖】。令天日鷲神與津咋見神、穀木種殖之、以作白和幣【是木綿也。已上二物、一夜蕃茂也】。令天羽槌雄神【倭文遠祖也】織文布。令天棚機姫神織神衣。所謂和衣【古語 爾伎多倍】。令櫛明玉神、作八坂瓊五百筒御統玉。令手置帆負、彦狹知二神以天御量【大小斤雜器等之名】、伐大峽、小峽之材、而造瑞殿【古語 美豆能美阿良可】兼作御笠及矛盾。令天目一筒神作雜刀、斧、及、鐵鐸【古語 佐那伎】」。

 この時、(知恵の神である)思兼神(おもいのかねのかみ)は、深く考えて議論の場で言った(神々に次の物を作るように命じた)。
天太玉神(あまのふとまたのかみ)は、諸部の神々を率いて、和幣(にぎて)を作れ。石凝姥神【鏡作氏の遠祖】は、天香山の銅を採取して、太陽の像(かた)を鋳造せよ。天長白羽神【伊勢国の麻続氏の祖。今、俗に衣服を「白羽」というのはこの縁である】は、麻を植えて「青和幣(あおにぎて)」【古語は「爾伎弖」】と為しこの一方で、天日鷲神と津咋見神(つくよみのかみ)に殻(かぢ)の木を植えさせて、白和幣(しろにぎて)【これは「木綿(ゆふ)」のことである。以上、麻と殻は、一夜にして生い茂った】と為し天羽槌雄神【倭文氏の遠祖】は、文布(しつ)を織り、天棚機姫神は、神職が着る神衣を織れ。いわゆる、和衣(にぎたへ)【古語は「爾伎多倍」】である。櫛明玉神【出雲忌部氏の祖神】は、八坂瓊五百筒御統(やさかにのいほつのみすまる)の玉を作れ。手置帆負命(たおきほおひのみこと)と彦狹知命(ひこさしりのみこと)の二柱の神は、天御量(あまつみはかり)という定規【大小の秤の種々の器の名】を使って、大小の峡谷の木材を伐採して、「瑞殿(みづのみあらか)」【古語は「美豆能美阿良可」】を建て、同時に御笠、矛、盾を作れ。天目一筒命(あめのまひとつのみこと)は、種々の刀、斧、また、鉄鐸【古語は「佐那伎」】を作れ」と。

 其物既備、掘天香山之五百筒真賢木【古語 佐禰居自能禰居自】而、上枝懸玉、中枝懸鏡、下枝懸青和幣、白和幣、令太玉命捧持稱讚。
 亦、令天兒屋命相副祈。
 又、令天鈿女命【古語、天乃於須女。其神、強悍猛固故、以爲名。今俗、強女謂之「於須志」、此縁也】。以真辟葛爲鬘、以蘿葛爲手繦【蘿葛者比可氣】、以竹葉、飫憩木葉、爲手草【今 多久佐】、手持着鐸之矛、而於石窟戸前、覆誓槽【古語 宇氣布禰。約誓之意】、舉庭燎、巧作俳優、相與歌舞。

 これらの物が揃うと、思兼神は、天香山の五百筒真賢木(いほつのまさかき)【古語は「佐禰居自能禰居自(さねこじのねこじ)」】を根こそぎ掘り出させて、(サネコジノネコ=根こそぎ掘って取り出して)、上の枝には玉を掛け、中の枝には鏡を掛け、下の枝には青和幣と白和幣を掛け、太玉命に命じて捧げ持たせ、称賛させた。
 また、天児屋命に命じて、祈祷させた。
 また、天鈿女命【古語は「天乃於須女」。その神は強く、荒く、猛々しく、固いので、この名前が付けられた。今。俗に強い女を「於須志(オズシ)」というのはこの縁である】には、真辟葛(マサキノカズラ)を鬘(かずら。髪飾り)とし、蘿葛(ヒカゲノカズラ)を手繦(たすき、襷)とし【「蘿葛」は「比可気(ヒカゲ)」と読む】、竹葉(ささば)と飫憩木(オケノキ)の葉を手草(たくさ。神楽などで手に持つ草)【今の「多久佐」】とし、手に鐸(さなぎ)を付けた矛を持ち、岩窟の戸の前に誓槽【古語は「宇気布弥(うけふね)。誓約の意味(で、矛で槽の底を突く)】を伏せ、庭燎(にわび)を掲げ、巧に俳優(わざおさ)をなし、相与(とも)に歌い舞わせた。

※忌部氏関連の神々の働きを太字にしたところ、ほぼ太字になった。忌部氏に関係ないのは、
・作戦を考え、神々に命令した知恵の神・思兼神=高御産巣日神の子
・鏡を鋳造した石凝姥神【鏡作氏の遠祖】=高御産巣日神の孫
・神衣を織った天棚機姫神【『倭姫命世記』では天八千千比売命の祖母】
・祝詞を詠んだ天児屋命【中臣氏の祖神】=天背男命の孫
のみで、「天の岩戸開け」で活躍したのは、忌部氏の祖神たちである。

※『日本書紀』では、中心は天児屋命です。
・天兒屋命:天香山の榊を掘り起こす。
・石凝戸邊(いしこりとべ):作った八咫鏡を上の枝にかける。
・天明玉(あめのあかるたま):作った八坂瓊之曲玉を中の枝にかける。
・天日鷲:作った木綿(ゆふ)を下の枝にかける。
・太玉命:榊を持ち、広く厚く称える言葉によって祷る。

※天岩戸別神社(徳島県名東郡佐那河内村上 牛小屋)

■忌部氏系図


<忌部五部神(天太玉命に従った5柱の神々)

・出雲忌部 祖神・櫛明玉命→玉作氏
・紀伊忌部 祖神・彦狭知命=瑞殿を建てた「大工の神」
・阿波忌部 祖神・天日鷲命(天日鷲翔矢命)→金鵄(八咫烏)、麻殖氏
・讃岐忌部 祖神・手置帆負命=瑞殿を建てた「大工の神」
・筑紫忌部/伊勢忌部 祖神・天目一筒命
※他に織田信長を輩出した越前忌部(越前二宮・剣神社)がいる。

天背男命┳天日鷲翔矢命┳大麻比古命(津咋見(月読)命)─由布津主命
    ┣櫛明玉命  ┣天長白羽命(天白羽鳥命)【麻続氏祖】
    ┗天比理乃姫命┗天羽槌雄命(天羽雷雄命)【倭文氏祖】
       ┣天櫛耳命─天富命【房総半島開拓神】
       ┣手置帆負命【讃岐忌部氏祖】─彦狭知命【紀伊忌部氏祖】
       ┣天宇受売命(伊勢の猿田彦命妃)【猿女君祖】
高皇産霊尊─天太玉命【忌部氏遠祖】

※天太玉命は、忌部氏の祖神ではなく、別流の祖神であるので、「遠祖」になる。忌部氏本流の祖神は、正式名「天日鷲翔矢命」(略称:天日鷲命)で、天背男命の御子神であり、天背男命は饒速日だという。

※系図
・系図①「安房国忌部家系」(安房神社
・系図②「忌部岡島家系」(下立松原神社
・系図③「斎部宿禰本系帳」(内閣文庫)

 手置帆負命は、天照大神が天の岩屋に隠れてしまわれた時、彦狭知命(ひこさしりのみこと)と共に天御量(あまつみはかり)をもって木を伐り、瑞殿(みずのみあらか)という御殿を造営した。天児屋命(あめのこやねのみこと)らが祈りを捧げ、天鈿女命(あめのうずめのみこと)が舞を奏したところ、天照大神は岩屋を出て、この瑞殿に入られた。 後年この間に天降りした大国主命(おおくにぬしのみこと)の笠縫として仕えたとされる。
 古語拾遺(807年)の「天中の三神と氏祖系譜」条に、太玉命(ふとたまのみこと)が率いた神の1つとして、「手置帆負命(讃岐国の忌部が祖なり。)」とあり、この「手置」とは「手を置いて物を計量する」意味と解釈されている。また、同書「造殿祭具の斎部」条には、「手置帆負命が孫、矛竿を造る。其の裔、今分かれて讃岐国に在り。年毎に調庸の外に、八百竿を貢る。」とあり、朝廷に毎年800本もの祭具の矛竿を献上していた。このことから竿調国(さおのみつぎ)と呼ばれ、それが「さぬき」という国名になったという説がある。
 讃岐忌部氏は、矛竿の材料である竹を求めて、いまの香川県三豊市豊中町笠田竹田忌部の地に居を構え、そこを拠点として特に西讃(せいさん)地方を開発した。また、善通寺市大麻町の式内社「大麻(おおさ)神社」の社伝には、「神武天皇の時代に、当国忌部と阿波忌部が協力して麻を植え、讃岐平野を開いた。」という旨の記述が見え、大麻山(おおさやま)山麓部から平野部にかけて居住していたことがうかがえる。この開拓は、西讃より東讃(とうさん)に及んだものといわれている。
 天富命(あめのとみのみこと)は、神武東征においては、手置帆負命・彦佐知命の二神の孫の讃岐忌部・紀伊忌部を率い、紀伊の国の材木を採取し、畝傍山の麓に橿原の御殿を作った。また斎部の諸氏を率いて種々の神宝・鏡・玉・矛・楯・木綿・麻等を作らせ、そのうち櫛明玉命の孫の出雲玉作氏は御祈玉を作った。そして、天日鷲命の孫の阿波忌部を率いて肥沃な土地を求め、阿波国に遣わして穀・麻種を植え、その郡の名は麻殖となった。続いて更に肥沃な土地を求めて阿波忌部を分けて東国に率いて行き、麻・穀を播き殖え、良い麻が生育した国は総国と言われ、穀の木の生育したところをは結城郡と言われ、阿波忌部が住んだところは安房郡と言われた。やがてその地に祖父の太玉命を祀る社を建てた。現在の安房神社でありその神戸に斎部氏が在る。また、手置帆負命の孫は矛竿を造り、その末裔は今別れて讃岐の国に在り讃岐忌部氏として年毎に調庸の他に八百竿を奉るのは、その事のしるしである。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 「古代史を研究しています」という人に、秦氏、物部氏、蘇我氏について聞くと詳しいが、忌部氏や中臣氏について詳しい人は超少ない。現在、忌部氏本家は「八咫烏」という秘密結社になっており、忌部氏を研究しようとすると圧力をかけてくるという都市伝説がある。

──中臣氏は日高見国の神官か?

 私が徳島県に生まれていたら、阿波国=邪馬台国説の検証ではなく、阿波忌部氏から始めて忌部氏の研究に取り組んでいたと思う。

──忌部氏は紀伊国の神官か?

 物部氏(石上氏)の本拠地は畿内だというけど、それは「内物部」で、商人だから、全国に「外物部」がいる。元の本拠地は北九州で、饒速日に連れられて大和入りしたかと。
──四国(高知)の物部(ものべ)は「いざなぎ流」(天竺のいざなぎ大王から伝授された24種の方術)



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