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安徳天皇の最期

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 安徳天皇の仮御所(行宮)は、福原→「一ノ谷の戦い」後に屋島→「屋島の戦い」後に柳ヶ浦と遷り、寿永4年(1185年)3月24日の「壇ノ浦の戦い」で安徳天皇は柳ヶ浦行宮を出て、壇ノ浦で入水し、崩御した。

安徳天皇「尼ぜ、私をどこへ連れて行こうとするのか」
二位尼 「波の下にも都がございます」

 豪華な唐船には替え玉が乗り、安徳天皇は普通の舟に乗っていたという。そして、安徳天皇を抱いて入水したのは、
・母方の祖母・二位尼(平時子)(『平家物語』)
・按察局(あぜちのつぼね)伊勢(伸子)(『吾妻鏡』)
だという。
 『鎌倉殿の13人』では、普通の舟に乗っていた二位尼が草薙剣、侍女が八咫鏡と八尺瓊勾玉、最後に安徳天皇を抱いた按察使局伊勢が入水していた。

1.安徳天皇のご陵墓


 「壇ノ浦の戦い」の翌日、下関市伊崎町一帯を縄張りとしていた漁師・中島一族が4隻の漁船に分乗して小門海峡(本州と彦島の間の海峡)で四尋網を仕掛けて漁をしていたところ、網に安徳天皇の遺体がかかったという。
 遺体は紅石山の南麓に埋められた。これが「安徳天皇御陵墓治定地」(山口県下関市阿弥陀寺町)の「阿彌陀寺陵(あみだじのみささぎ)」である。
 「壇ノ浦の戦い」の1年後、安徳天皇の怨霊を鎮めるため、源頼朝の命で阿弥陀寺御影堂(天皇殿、安徳天皇社)、京都に向けて(東向きで)造立された。後白河法皇も、建久2年(1191年)、安徳天皇の怨霊鎮慰のために、一堂を建立させた。

※歴史人「壇ノ浦に沈んだはずの安徳天皇の亡霊が源頼朝を死に至らしめたというのは、本当なのだろうか?」
https://news.yahoo.co.jp/articles/f6ed0dccc8e1b22c985ddb2c5bea4c7fbfe2eed4

 明治の廃仏毀釈により、阿弥陀寺は廃寺となり、赤間神宮となった。赤間神宮は、安徳天皇や二位尼が竜宮城にいたという建礼門院徳子の見た夢(『平家物語』「六道之沙汰」)にちなみ、竜宮城を再現した竜宮造りとなっている。
 慈円『愚管抄』には、「安徳天皇は、平清盛が信仰した安芸の宮島・厳島神社(広島県廿日市市宮島町)のご祭神・宗像三女神が化生(けしょう)した存在で、竜王・素戔男命の娘であるから、父神・素戔男命が得た草薙剣を持って海の底の竜宮城へ帰っていったのだろう」(意訳)とある。

 『愚管抄』に「竜王の娘」とあることや、安徳天皇を祀る赤間神宮や水天宮のご神徳が「安産」であることから、安徳天皇は女性だとする「安徳天皇女性説/安徳天皇姫宮説」がある。

 『王居止御陵記』によれば、阿彌陀寺陵に眠るのは、安徳天皇の着物を着た替え玉・大納言時房の娘(7歳)であり、本物の安徳天皇は3月28日に長門国大津郡沢江ノ浦から来た漁師の網に掛かったという。ご遺体を埋葬しようと駕籠に乗せて運んでいたところ、突然、重くなり、駕籠を動かせなくなったので、そこに埋葬し、そこの地名を「王居止(おういし)」としたという。そこにあるのが、安徳天皇西市御陵墓参考地「王居止御陵」(山口県下関市豊田町地吉)である。

2.安徳天皇生存説

(1)宮尾登美子の安徳天皇身代わり説


 安徳天皇が腹違いの兄弟である守貞親王と彦島で入れ替わったとする説である。御座船にいて、二位尼(平時子)が按察局伸子の介添えで入水したのが守貞親王で、軍船にいて、守貞親王の乳母・治部卿明子が守ったのが安徳天皇であり、この後、安徳天皇は、守貞親王(後の後高倉上皇)として生きることになった。
 安徳天皇→守貞親王説にしても、明智光秀→天海僧正説にしても、「誰か気づくのではないか?」と思う。

 なお、天皇山(青森県つがる市木造町)の伝承では、入水したのは安東水軍の将・塩飽次郎左衛門の子・辰丸であり、安徳天皇は安東水軍に匿われて津軽国に逃れ、天皇山に行宮を建て住んだが、津軽国の冬の寒さに耐えかねて、安東船に乗って中国に渡ったとする。源義経も安東船に乗って中国に渡ったのだろうか?

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