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筒井順慶の父親の死因

★『多聞院日記』
「天文18年5月6日条」

筒井順昭殿、去月26日夜、只4、5人にて坂本まで行かれ了。道心と云々。真実、知り難し。仍て松屋に於て祈祷を為す。信読経心落在之。5、6巻、人数に読了。
「天文18年5月18日条」
今日より筒井城に於て、寺類衆、下向され、信読経沙汰云々。事の子細は、順昭、去る卯月26日の夜、道心とて叡山へ上了。彼の城に於て、希異事共多しと云々。或は、光る物多くありと云ふ。或は、狐、人々悩ますと云々。併せて順昭も左様な物に狂気せしめらる歟云々。仍て此の如く祈祷を為す云々。
 有縁なればとて、か様の沙汰、寺門の瑕瑾(かきん)、都鄙の見聞、他寺の嘲哢(ちょうろう)、浅猿(あさまし)浅猿ども、限り無き事也。心有る人、何ぞ之を悲しまず哉。近来、寺門の為体(ていたらく)、毎事是体にて、はてきれたる事也。此の如きは漸々に堂家世渡聖の様に時かゆをも、ろさゐに行くべき也。浅猿、浅猿。
 時に下向の衆、賢聖院、竜雲院、金蔵院、成福院、成身院、蓮成院、延禅院、勝舜院、円勝院、春音院、春知院、春乗院、願円院、尺迦院、春定院、源乗房、堯香院、学宗院、妙音院、源覚院、春聖院。以上、21人云々。


 筒井順慶の父親の死因は「もかさ(天然痘)」とされています。
 筒井順慶の父・筒井順昭は、天文18年(1549年)4月26日、家臣4、5人を連れて比叡山延暦寺に入り、家督を筒井順慶に譲りました。これは「道心」(出家)のためではなく、もかさ治癒の祈祷を受けるためでしょう。異説としては、『多聞院日記』に

──彼の城に於て、希異事共多しと云々。或は、光る物多くありと云ふ。或は、狐、人々悩ますと云々。併せて順昭も左様な物に狂気せしめらる歟云々。(筒井城では奇怪なことが多く起こった。光る物体(狐火?)がよく出るとも、狐が人々を悩ます(狐憑き?)とも。筒井順昭もこのような物によって気を狂わされたのであろうか?)

とあります。
 筒井順昭は、天文19年(1550年)2月28日、比叡山延暦寺から戻り、6月20日に息を引き取りました。この時、声が似ている琵琶法師の木阿弥を影武者して死を隠したとそうです。木阿弥は殿様として、贅沢な生活を送りましたが、筒井順昭の死が発表されると、元の生活に戻されました。これを「元の木阿弥」といいます。


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