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4枚の写真で語る美夜受姫の生涯

 他人、いや、神様の人生を、たった4枚の紙芝居、いや、写真芝居にしてしまうというのは畏れ多いが・・・しかも4コマ漫画のように起承転結になってはいない。

★登場人物

・美夜受姫(みやすひめ):『日本書紀』では宮簀媛、『古事記』では美夜受比売と表記する。尾張国造・乎止与の娘。兄の建稲種は日本武尊東征の副将軍。
 「みやすひめ」という名は、後述のように、後世の名であろう。それでこの記事では「宮」の使用を避けて「美夜受姫」とした。
 「宮簀媛」となる以前の名は不明であるが、美女ヶ森「大御食神社」(長野県駒ヶ根市赤穂市場割)に五郎姫神(いついらつひめのみこと)が祀られている。伝承に「祭神の五郎姫神は美夜須姫のこと」とあり、「美女ヶ森」の名の由来となっている。日本武尊の孫・応神天皇の8年7月に尾張国から勧請したという。
 また、『古事記』には「尾張国造の祖」、『尾張国吾湯市郡火上天神開始本伝』や『熱田祠官略記』には、尾張国造「小止女命(おとめのみこと)」とあり、父・「乎止与命(おとよのみこと)」の名や、六末社の乙子社(おとごしゃ)の社号を思い出させる。日本武尊と結婚する前は「乙女」、日本武尊の死後は「姉子」(氷上姉子)と呼ばれたのであろう。

・倭武(やまとたける):『日本書紀』では日本武尊、『古事記』では倭建命と表記する。この記事では、天皇の名によく使われる「武」を用い、「倭武」とした。
 宮簀媛命は、和歌で「高光る日の御子」「我が大君」と呼んでいる。六末社の日長社(ひながしゃ)の社号を思い出させる。

 なお、「~のみこと(命、尊)」は死後、神となってからの名であるので、この記事では付けずに「美夜受姫」「倭武」とした。

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 倭武美夜受姫と出会った時、美夜受姫は、1人で川で布を洗い、曝(さら)して( 風にさらして干して)いたという。倭武が尾張氏の本拠地・火上山(尾張国愛智郡成海郷氷上邑の氷上山、氷上里。名古屋市緑区大高町火上山)への道を聞いたが、美夜受姫は、(倭武は尾張国造の娘だと知らず)聞き方が上から目線で無礼者だと思ったからか、耳が聞こえない振りをして無視したという。

 二人の出会いの場所の地名は「布曝女町(そぶくめまち)」となり、「おつんぼ神」と呼ばれる松姤社(朱鳥元年(686年)創建)が建てられ、底の抜けた柄杓を奉納すると耳がよく聞こえるようになるといわれている。(「つんぼ」は差別用語だとして、現在の呼称は「耳の神様」である。)

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 道を聞いた見知らぬ男性が、景行天皇の皇子だと聞いて、美夜受姫は驚いたことであろう。早速婚約し、「東征から無事に帰ってこられたら結婚する」と誓ったと言う。

 倭武が東征から帰ってくると、二人は、火上山近くの斎山(いつきやま)で結ばれたという。現在、斎山稲荷神社古墳の頂上に斎山稲荷社(御祭神は、倉稲魂命、日本武尊、宮簀姫命の3柱。名古屋市緑区大高町斎山)が建っている。小祠だと思いきや、行ってみると、立派な社殿で驚いた。日本武尊&宮簀姫命が祀られている唯一の稲荷社であろう。

 倭武の上陸地船津神社(愛知県東海市名和町船津)も近い。倭武が船を、後に船津神社の境内となる松に縄で繋いで上陸したので、神社を建てて社号を「船津」、地名を「縄(名和)」にしたという。
 兜山古墳(4世紀末。この地域最後の首長墓。以降、熱田台地へ。東海市名和町北玄蕃)や名和古墳群(「三ツ屋古墳群」とも。愛知県東海市名和町三ツ屋)もある。

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 倭武と美夜受姫の新居は、火上山の麓の「寝覚の里」に設けられた。
 朝、波の音で目覚めるので「寝覚の里」という。
 石碑の碑文には、「倭武」ではなく、「倭武天皇」とあった。

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 倭武が伊吹山経由で大和国に帰る日が来た。
 倭武は、「形見に」と草薙剣を美夜受姫に渡した。美夜受姫は、火上山の山頂の尾張氏居館(「宮簀媛命宅趾」碑の場所)で草薙剣を祀った。(尾張国造であった父・乎止与は既に亡くなっており、尾張国造を受け継いだ兄・建稲種は東征の帰路、水死したので、美夜受姫は小止女と名乗って尾張国造になったという。)
 死期を悟った美夜受姫は、草薙剣を屋敷に置くのではなく、自分が生きている内に宮を建てて草薙剣を祀とうと思い、どこがよいか占わせると「熱田」と出たので、仲哀天皇元年、熱田神宮を建てて草薙剣を祀った。

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