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『東海道名所図会』「富士川水鳥古跡」

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             ※地図:『静岡県の歴史散歩』(山川出版社)

「富士川の戦い」の戦場の詳細は不明であるが、『東海道名所図会』によれば、「富士川」ではなく、「富士沼」であり、それは善徳寺村(今の今泉)だという。

・善徳寺(善得寺):今川義元が、出家して「栴岳承芳」と呼ばれていた時代にいた寺。九英承菊(後の太原雪斎)が武田晴信、北条氏康、今川義元を呼び、「甲相駿三国同盟」(善得寺会盟)を結ばせた寺として知られる。
富士川水鳥古跡「平家越」:「平家越」という地名があった。現在、そこに石碑が建てられている。

■『東海道名所図会』「富士川水鳥古跡」


 富士川の東に一里許の大沼あり。こゝに水鳥多く聚(あつま)るとぞ。『丙辰紀行』に、「平氏、鳥の羽音に驚きて逃げ去りしは、富士の沼の事にて、今の善徳寺は其の所也」と云々。『駿河記』に「善徳寺村。今は今泉といふ。今の吉原の北にあり。其の地に平家越と云ふ所あり。治承の乱の遺跡也」とぞ。

『東鑑』云。
治承四年十月廿日己亥。武衛令到駿河國賀嶋給。又左少將惟盛。薩摩守忠度。參河守知度等。陣于富士河西岸。而及半更武田太郎信義。廻兵畧潜襲件陣後面之處。所集于富士沼之水鳥等群立。其羽音偏成軍勢之粧。依之平氏等驚騒。爰次將上総介忠淸等相談云。東國之士卒悉属前武衛。吾等憖出洛陽。於途中巳難遁圍。速令歸洛。可搆謀於外云々。

『平家物語』云。
去程に右兵衛佐殿謀反のよし、風聞ありしかば、福原には公卿僉議(くぎやうせんぎ)有て、「今一日も勢(せい)の付かぬさきに、急ぎ討手を下さるべしとて大将軍に小松権亮少将維盛、副将軍には薩摩守忠度、侍大将には上総守忠清を先手として、都合三万余騎、治承四年九月十八日、新都を立って、明日十九日には旧都に著(ちゃく)し、同じき廿日、東国へこそ赴かれけれ。(中略)十月十六日には、駿河国清見関にぞ着き給ふ。都をば三万余騎で出でたれども路次の兵(つわもの)付き副(そい)て、七万余騎とぞ聞へし。前陣(せんぢん)は蒲原富士川に進み、後陣はいまだ手越宇津の屋に支へたり。(中略)大将軍権亮少将維盛、侍大将上総守忠清を召して維盛が存知には足柄の山うち越え広みに出でて勝負をせんと逸られけれども上総守申しけるは福原を御立ち候ひし時入道殿仰せには「軍をば忠清に任せさせ給へ」とこそ仰せ候ひつれ伊豆駿河の勢の参るべきだにも未だ見え候はず御方の御勢は七万余騎とは申せども国々の駆武者馬も人も皆疲れ果て候ふ。関東は草も木も皆兵衛佐に従ひ付いて候ふなれば何十万騎か候ふらん。ただ富士川を前に当てて御方の御勢を待たせ給ふべうもや候ふらん。と申しければ力及ばで揺らへたり。さるほどに兵衛佐頼朝鎌倉を立つて足柄の山うち越えて木瀬川にこそ着き給へ 。甲斐信濃の源氏ども馳せ来たつて一つになる駿河国浮島原にて勢揃へあり。都合その勢二十万騎とぞ聞えし。常陸源氏佐竹太郎の雑色の主の使に文持て京へ上りけるを平家の方の侍大将上総守忠清この文を奪ひ取つて見るに女房の許への文なり。苦しかるまじとて取らせけり。「さて、当時鎌倉に源氏の勢はいかほどあるとか聞く」と問ひければ 、「下臈は四五百千までこそ物の数をば知つて候へ。それより上は知らぬ候ふ。四五百千より多いやらう少ないやらうは知り候はず。凡そ八日九日の道にはたと続いて野も山も海も河も武者で候ふ。昨日木瀬川で人の申し候ひつるは源氏の御勢二十万騎とこそ申候ひつれ」と申しければ上総守、あな心憂や、大将軍の御心の延びさせ給ひたるほど口惜しかりける事はなし。今一日も先に討手を下させ給ひたらば大庭兄弟、畠山が一族などか参らで候ふべき。これらだに参り候はば、「伊豆、駿河の勢は皆従ひ付くべかりつるものを」と後悔すれどもかひぞなき。)
 大将軍維盛、東国の案内者とて長井斎藤別当実盛を召して、「汝程の強弓の精兵、東八箇国にいかほどあるぞ」と問ひ給へば、斎藤別当、嘲笑ひて 「君は実盛を大箭(や)と思し召され候ふにこそ僅かに十三束を仕り候へ。実盛程射候ふ者は八箇国に幾らも候ふ。大箭と申す条者、十五束に劣って引くは候はず。弓の強さも健(したた)かなる者の五、六人して張り候ふ 。かやうの精兵共が射候へば鎧の二、三両は容易(たやすく)かけず射徹(とを)し候ふ。大名と申す条に者は、五百騎に劣って持つは候はず。馬に乗って落つる道を知らず。悪所を馳すれども馬を倒さず。軍は又、親も討たれよ子も討たれよ死ぬれば乗り越へ乗り越へ戦ひ候ふ。西国の軍(いくさ)と申すは、惣(すべ)て其の儀は候はず。親討たれぬれば、引き退き、仏事孝養(けうやう)し忌(い)み明(あ)きて、寄せ子討たれぬれば、其の愁歎(しうたん)とて寄せ候はず。兵糧米、尽きぬれば、春は田作り、秋は刈り収めて寄せ、夏は熱しと厭(いと)ひ、冬は寒しと嫌ひ候ふ。東国の軍は、凡(すべ)て、其の儀は候はず。其の上、甲斐、信濃の源氏等、案内は知りたり。富士の裾より搦手にや廻り候はんずらん。かやうに申せば大将軍の御心を臆させ参らせんとて申すとや思し召され候ふらん。其の儀では候はず。(その故は、今度の軍に命生きて二度都へ参るべしとも存じ候はず。)但し軍は勢の多少にはより申さず。大将軍の謀(はかりごと)によるとこそ申し伝へて候へ 」と申しければ、是れを聞く兵共、皆、ふるひ慄(わなゝ)き敢(あへ)りたり。
 去る程に、同じき二十四日の卯の刻、富士川にて源平の矢合せとぞ定めける。二十三日の夜に入って平家の兵ども、源氏の陣を見渡せば、伊豆、駿河の人民、百姓等が、軍に恐れて、或は、野に入り、山に隠れ、或は、舟に取り乗って海河に漂(うか)びたるが、営みの火の見へけるを、「あな夥(おびただ)し」と、「源氏の陣の遠火の多さよ。実に野も山も海も河も皆武者にて有りける。いかがせん」とぞあきれける。
 其の夜の夜半計、富士の沼に幾等も有りける水鳥どもが何にかは驚きたりけん、一度にばっと立ちける羽音の雷(いかづち)、大風などの様に聞へければ、平家の兵ども、「源氏の大勢の向かふたるは、昨日、斎藤別当が申しつる様に、甲斐、信濃の源氏等、富士の裾野より搦手へ廻り候ふらん。敵、何十万か有るやらん。取り籠められては叶ふまじ。爰をば落ちて、尾張河洲俣を防げや 」とて、取る物も取り敢へず、「我先に」「我先に」とぞ落ち行きける。余りに周章(あは)て騒いで、弓取る者は矢を知らず、矢取る者は弓を知らず 。我が馬には人に乗り、人の馬には我れ乗り、繋ぎたる馬に騎(の)って馳すれば、株(くひ)を繞(めぐ)る事、限りなし。其の辺近き宿々より遊君遊女ども召し集め、遊び酒盛りしけるが、或は、頭(かしら)を蹴破られ、或は、腰踏み折られて喚(おめ)き叫ぶ事、夥し。
 同じき二十四日の卯の刻に、源氏二十万騎、富士川に押し寄せて天も響き大地も𩖢(ゆら)ぐ計りに鬨をぞ三箇度作りける 。平家の方にはしずまり返って音もせず。人を入れて見せければ、「皆、落ちて候」と申す。或は敵の忘れたる鎧取って参る者もあり、或は、平家の捨て置きたる大幕取って帰る者もあり。「凡そ平家の陣には、蠅だにも翔(かけ)り候わず」と申。兵衛佐殿、急ぎ馬より降り、甲を脱ぎ、手水(ちょうず)、鵜飼(うがい)をして王城の方を伏し拝み、「これ、全く頼朝が私の高名に非(あら)ず。偏へに八幡大菩薩の御計らひ也」とぞ宣(のたま)ひける。「軈(やが)て打ち取る所なれば」とて、駿河国をば一条次郎忠頼、遠江国をば安田三郎義定に預けらる。「猶も続いて責むべかりしかども、後ろの覚束なし」とて、駿河国より鎌倉へぞ帰られける。
落首に、
  富士川の瀬々の岩こす水よりも はやくも落つる伊勢平氏哉

『丙辰紀行』(注:「冨士沼」の条)
相国(注:徳川家康)の御前にて、『平家物語』の事のありしに、平氏、水鳥の羽音に驚きて逃げ去りしは、富士の沼の事にて、今の善徳寺は其の所也。斉藤別当が、東国に精兵多き事を語りしによりて、平家の兵ども、臆病神の付きて、かくの如くありける也。御前に侍りける某を御覧じて、「弁士をして敵の美を談ぜしむる事なかれと、兵法にいへるは是れ也」と仰せける事も、只今の様に、玉音、耳にとゞまりて覚へ侍る。
                           羅山
  闔国中分源与平
  東方気勢尽豪英
  何須祈八公山上
  竿是旌旗木是兵


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