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「苦学寒夜 紅涙霑袖 除目春朝 蒼天在眼」の3通りの解釈+1


学問に励んだ寒い夜は血の涙が袖を濡らした。除目の翌朝、無念さに天を仰ぐ私の眼には、ただ蒼い空が映っているだけ。・・・蒼天は天子を指す言葉でもある。朕のことか。

『光る君へ』

「苦学寒夜 紅涙霑袖 除目春朝 蒼天在眼」の意味は、
・苦学して、寒い夜には、血の涙が袖を濡らした。
にもかかわらず、
・除目が発表される春の朝(任官されず)青空を仰ぐ。
です。


説話集では、

解釈①申文(もうしぶみ。就職希望書)を出す。
  ↓
結果、今年の除目でも任官されなかった。
  ↓
「苦学寒夜 紅涙霑袖 除目春朝 蒼天在眼」
(こんなに苦労したのに国司にしてもらえないの?)
と上奏
  ↓
一条天皇/藤原道長が感激して、大国・越前国の国司に大抜擢

となっています。
 庶民としては、国司未経験者が、いきなり大国の国司に大抜擢されることはありえないので、その理由を知りたかったことでしょう。

 しかし、史実は、

長徳2年(996年) 1月25日 藤原為時、下国・淡路守に就任。
長徳2年(996年) 1月28日 藤原為時、大国・越前守に急遽変更。

であることが分かっているので、史実に即して解釈すれば、

解釈②申文(もうしぶみ。就職希望書)を出す。
  ↓
ようやく下国・淡路国の国司になれたが、
「苦学寒夜 紅涙霑袖 除目春朝 蒼天在眼」
(こんなに苦労したのに下国の国司? 大国の国司ではないの?)
と上奏
  ↓
一条天皇/藤原道長が感激して、大国・越前国の国司に大抜擢

となるのですが、10年間も無職だった人が、ようやく職を得られて、このような不満を天皇に上奏するとは考えられません。
 2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』では、「たとえ身分不相応であっても、能力ある人が、その能力を活かせる職に就くべき」(適材適所)と考えていた藤原為時の娘・紫式部が、父に代わって上奏したとしました。
  高下雖有殊  高下、殊なる有りと雖も、 ※高下=貴賤
  高者未必賢  高き者、未だ必ずしも賢ならず。
  下者未必愚  下なる者、未だ必ずしも愚ならず。
 ちょうど藤原道長は、「越前国司には、中国語を理解し、漢文が書ける人物が良い」と考えていたので、藤原為時を大国・越前国の国司に大抜擢することを一条天皇に上奏したとしました。自然な流れで、ドラマとしては成立していますが、史実ではないでしょう。(紫式部の文を読んで、藤原為時の才能に気づくというのは不自然ですが、藤原為時が花山天皇に漢文を教えていたことを思い出したのでしょう。)

 史実は、

解釈③「苦学寒夜 紅涙霑袖 除目春朝 蒼天在眼」
(こんなに苦労したのに国司にしてもらえないの?)
と申文を出す。
  ↓
淡路守になった。
  ↓
政治的理由で大国・越前国の国司に変更された。
  ↓
「政治的理由」を知らない貴族が、大抜擢の理由を知りたくて申文を読み、「苦学寒夜 紅涙霑袖 除目春朝 蒼天在眼」という文が一条天皇/藤原道長の心を動かしたと想像し、広めた。

って感じではないでしょうか?

 その政治的理由とは・・・

解釈④『光る君へ』の時代考証の倉本一宏先生によれば、藤原為時を越前国の国司にすることは最初から決まっていたが、「無職→大国の国司」は無理なので、「無職→小国の国司→大国の国司」とした、それが既定路線(出来レース)だったとしています。
 つまり、1月25日に下国・淡路守に就任させた時点で、1月28日に上国・越前守に変更することが決まっており、藤原為時の出世に「苦学寒夜 紅涙霑袖 除目春朝 蒼天在眼」は関係ないとしています。

【Recoの意見】 国には大国-上国-中国-下国と4つのランクがあります。国司未経験者は、まずは下国の国司からのスタ―トになるでしょう。いきなり1ランク上の中国の国司からスタートさせたい場合は、倉本一宏先生のいうような段階を踏ませたかもしてませんが、下国の淡路国から一気に3ランク上の大国の越前国へというのは、特別な理由(紫式部が藤原道長の妾?)が無い限り、考えにくいかと思います。
 藤原為時は、
・実力があれば登用します。(新たな実力者の発掘)
・藤原道長派に入れば、一気に出世が可能です。
という広告塔に使われた気がします。
 新たな実力者の発掘が必要な理由は、多数の実力者が疫病で病死したからでしょう。

■をしへて! 倉本一宏さん 
~藤原為時はどうして越前守に抜擢されたの?


 大河ドラマ「光る君へ」第20回で無官から脱し、越前守に任じられた藤原為時(岸谷五朗)。時代考証を担当する倉本一宏さんに、なぜに為時が越前守に抜擢(ばってき)されたのかについて伺いました。
――藤原為時が越前守となった経緯を教えてください。
 
為時はずっと六位の無官なので、国司の最高責任者である受領(ずりょう)の申文(もうしぶみ)なんて出せないはずだったのですが、長徳2年(996)になって突如、状況が変わりました。1月初旬に叙位という儀式があるのですが、為時はいきなり従五位下(じゅごいのげ)になりました。なぜなったのかはわかりません。ふつうは年爵(ねんしゃく)といって、院、東宮、后、公卿(くぎょう)といった有力者が推薦するんです。為時にはそんなコネはないはずなんですけれど、いきなり従五位下になったんです。
 六位では受領になる資格がないのですが、従五位下になったので資格が得られ、申文が出せるようになりました。そして1月25日に淡路守に任じられました。淡路は律令制では下国(※注1)にあたります。今はとてもステキなところですが、当時は田んぼが少なくて、それほど米が収穫できなかったでしょうから、貴族に人気の受領というわけではありませんでした。けれども、これだけでも大抜擢です。
【注1】下国(げこく) … 律令制において、面積や人口などによって諸国を大・上・中・下の四等級に分けたうちの最下級の国。和泉・伊賀・志摩・伊豆・飛騨・隠岐・淡路・壱岐・対馬の9か国。
――淡路守に任官できたことで、すでに大抜擢なんですね。
 
1か月前まで、六位の無官でしたからね。それで、除目(じもく)には直物(なおしもの)という訂正があるんですが、3日後の1月28日に直物があり、越前守に任じられていた源国盛と淡路守に任じられていた為時が、受領を交代することになりました。
 この国盛という人物は、藤原道長の乳母子(めのとご)ですので、道長と深い関係にあります。国盛はこれまでに受領をいくつか歴任していますので、そんな彼が大国(※注2)である越前守から淡路守に替えられるということは、すごく格落ちなわけですね。説話だと悔しくそのまま寝込み、亡くなってしまったというように語られていますけれども、実は、国盛はそのあと播磨守に替えられているんですよ。播磨は大国の一つで、院政期以降には一番格の高い国になります。つまり、この一連の流れは、おそらく道長の筋書きどおりだと思います。
【注2】大国(たいこく)… 律令制において、面積や人口などによって諸国を大・上・中・下の四等級に分けたうちの、第一位の国。大和・河内・伊勢・武蔵・上総・下総・常陸・近江・上野・陸奥・越前・播磨・肥後の13か国。
――どうして為時が越前守になれたのでしょうか。
 
長徳2年の除目は、藤原道長が政権を握ってから初めての除目になります。このころは漂着した宋人が越前にいて、あちこちでドラブルを起こしていました。兵士のトラブルも起きていたようなんですね。越前は都に近く、宋人に攻め込まれでもしたら大問題ですから、朝廷としては越前守に、宋人を大宰府に回すか、もしくは宋に帰らせることを求めたのだと思います。それで白羽の矢が立ったのが、漢文に優れて、宋人とも意思疎通ができた為時というわけです。けれども、いきなり前年まで六位で無官であった為時を任命するわけにはいきませんから、まずは淡路守とし、そののちに越前守としたのでしょうね。

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