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日は悲し一五七五ぞと武田七九

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 徳川&織田連合軍が武田軍を破った設楽原古戦場には「かるた看板」があり、古戦場巡りの1つの楽しみとなっているのですが、時々、意味不明なものが・・・(失礼)。『徳川家康』の著者・山岡宗八筆「長篠役設楽原決戦地」碑の前に、

 ──日は悲し一五七五ぞと武田七九

 一期無いぞと武田泣く日は悲し?
 設楽原決戦の日は、梅雨が明けた天正3年5月21日。これを西暦に直すと1575年7月9日で、これを「一五七五(いちごない)ぞと武田七九(なく)日は悲しい」と語呂合わせで暗記するといいらしい。

 さて、負けた武田勝頼は、田峯城主・菅沼定忠、家老・城所道寿の案内で、田峯城(愛知県北設楽郡設楽町田峯)へ逃げようとしました。菅沼定忠は、居城・田峯城で慰労しようと思ったのですが、田峯城を守っていた留守居の叔父・菅沼定直、家老・今泉道善が入城を拒絶した上、武田勝頼を捕らえようとしたので、武節城(愛知県豊田市武節町)へ逃げました。(城所道寿の息子・六之助は、乳母・おゆきに守られて城を脱出しました。)

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 その後、武田勝頼は、海津城代・春日虎綱(高坂昌信)8000人と駒場で合流し、甲斐国に戻りました(かるた看板「留守の役高坂弾正は海津城」)。

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【後日譚】翌天正4年7月14日(1576年8月18日)、前年の「城主と主君を入城拒絶」という辱めを怨んでいた菅沼定忠は、田峯城を急襲し、一族郎党、老若男女を問わず、城にいた全員(96人)を惨殺し、首を作手街道に晒した後、埋めました(「首塚」)。ただし、菅沼定直と今泉道善は、生け捕りにして、鋸挽きの刑にしました。

・首塚(旧・作手街道)
・今泉道善の墓(道善畑)

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