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八橋と宮橋

■八橋

 徳川家康の祖先・世良田信武(松平親氏)の前室は酒井氏の娘、後室は在原松平氏の娘である。

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 在原業平…在原松平信盛─在原松平信重┬海女(出産後、死亡)
                    └水女
                      ‖─松平信光…徳川家康
                                      世良田長親─世良田信武(松平親氏)

※参考記事:「尾張国の業平伝説 」
https://note.com/sz2020/n/n27f74724b92f

■松平初代親氏の妻・水姫(在原業平の子孫)の歌

松平太郎左衛門尉親氏卿の内室は、在原信重の息女にておはしませば、むかしをおもひ出て、
                          親氏卿妻女
  思日きや名のみくちせぬ八はしの 浅沢水に袖ぬれんとは
■『三河八代記古伝集』「御後室八橋観世音堂御参詣の事」
或る時、親氏公の御後室、仰せ有りけるは、「我れ、近年、八橋の観世音に参詣の志有り。殊に彼の地は吾江家の昔し在中将業平、東路の旅行の時、杜若の詠に帰志の哀情を述べられし旧跡たり。其の名所御遊覧の為め、年来の御宿願遂げらるべし」とて、供人数多召し連れられ、「八橋詣」として松平の里を御立出。九折なる山路を越え、矢作の宿に出で給ふ。「是なん兼高長者が旧居なり」と申し上げれば、浄瑠璃の遠き昔の妹背の哀れまで思し召しはかられ、八橋の里に御着き有りて、四方の景色を詠覧あれば、水行く川の蜘蛛手なるに渡せる橋は名のみにして、僅かに橋の柱のみ朽ち残り、杜若の沢は半ば埋もれて賤が田面と成りにけり。誠に時移り、物(こと)易(かは)れる有為転変の浮世の消息(ありさま)に、御哀れを催し、業平の餉(かれい)の上に愛執の泪を注がれつる遠き昔の御所縁思召し遣られて、そぞろの泪に御袂を絞られて、
  思ひきや名のみ朽ちせぬ八橋の 浅沢水に袖濡んとは
と1首の御詠歌を口遊(くちづさみ)給ひて、扨、観音堂に詣で給ひ、鰐口、丁と打ち鳴らし、仏前に稽首(けいしゅ)して、現当2世の御祈り事、終わりぬれば、夫より御帰駕に及びけり。


■宮橋

■『海道記』の作者(鴨長明?)の歌

 宝飯郡御津の神祠の前に架したるといふは非なり。同郡八幡村八幡宮の下にすこしき板橋有。俗呼て「筋違橋」といふ。是也といへり。
 『海道記』にいはく、「此橋の上におもふ事をちかひてうちわたらは、何となく心もゆくやうにおほへて、遙に過れは宮はしと言所あり。数双のわたし板は朽て跡なし。八本の柱はのこりて溝にあり。心のうちにむかしをたつねて言のはしに今をしるす」。
                          鴨長明
  宮橋ののこるはしらにこととはん くちていく世かたえわたりぬる


 ──八本の柱は殘て溝にあり。

これは八橋ではなく、宮橋のことだけど、8本の橋脚の1梁の橋は蜘蛛に似てるんだろうなぁ。

■『海道記』

 山中に堺川あり。身は河上にうかんでひとり渡れども、影はみなそこに沈て我とふたりゆく。
 かくて三河國にいたりぬ。雉鯉鮒が馬場を過て、數里の野原に一兩のはしを名づけて「八橋」といふ。砂に睡る鴛鴦は夏を辭去り、水にたてる杜若は時をむかへて開たり。花はむかしの色かはらず咲ぬらむ。橋もおなじ橋なれども幾度つくりかへつらん。相如が世をうらみしは肥馬に乘て昇僊にかへり。幽子身を捨る。窮鳥に類て當橋を渡る。八橋よ、八橋よ、くもでに物おもふ人は昔も過きや。橋柱よ、はしばしらよ、をのれも朽ぬるか。むなしく朽ぬるものは今もまたすぐ。
  すみわひて過る三河のやつ橋を心ゆきてもたちかへらはや
此はしのうへにおもふ事をちかひて打渡らば、何となく心もゆく樣におぼえて、遙に過れば宮橋といふ所あり。數雙のわたし板は朽て跡なし。八本の柱は殘て溝にあり。心のうちにむかしをたづねてことのはしに今をしるす。
  宮橋の殘るはしらにこととはん朽て幾世かたえわたりぬる

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