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源義高の最期

『吾妻鏡』には、次のようにある。

4月21日  大姫、源義高を逃がす。
4月26日  源義高、藤内光澄に討たれる。享年12。
5月1日    源頼朝、源義高一味征伐を命令。大軍が甲斐&信濃国へ。
5月2日  御家人たちが「いざ鎌倉」と集合
6月27日  藤内光澄、斬首

※『吾妻鏡』
https://note.com/sz2020/n/nd431a66fc68a

 大姫はまだ幼く、源義高を逃がせないと思う。2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(第17回)「助命と宿命」では、北条ファミリーのチームワークで逃がしていた。

 源義高は、源頼朝と源義仲の和議を確かなものにするための人質であるので、本来、源義経は、源義高を殺して出陣すべきであった。(軍師が催行する出陣の儀式には、誰かの生首が必要である。)用済みとなった人質を生かしておいたのは、大姫と婚約したからであろうか? もしかしたら、源義仲が源義経を討ち取って鎌倉に攻め込んできた時、源義高との交換で和議を結ぼうと思って生かしておいたのかもしれない。

■動画集

1.源義高と大姫の悲恋

2.源義高が殺された理由

3.源義高の最期

4.源義高関連史跡

※狭山市で討たれたのは影武者・宇野平八であり、源義高は、佐野基綱を頼って栃木県佐野市岩崎町に落ち延び、そこで岩崎義基(よしたか)と名乗って隠れ住んだという。藤内光澄が打ち首になったのは、源義高の首ではなく、宇野平八の首だと判明したからだろうか?

・くまがやねっと情報局「佐野市(旧田沼町)に残る義高伝説」
https://www.kumagayakan.net/info/now/menuma1802.html

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画像1

                    (源頼朝の花押)
依咎藤内光澄可被行死罪候明日中搦取以江間小四郎可令誅殺候由鎌倉殿仰所
候也仍執達如件
   四月廿二日  広元(花押)
  北条四郎殿

(「咎により藤内光澄を死罪に処す。明日中に江間小四郎にからめ取らせ、誅殺させよ」と鎌倉殿が仰せなので、そのように通達するものである。)

※『吾妻鏡』によれば、藤内光澄の斬首は6月27日である。2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(第17回)「助命と宿命」では、源義高が逃げたのは4月21日であり、その日の内に藤内光澄に見つかって討ち取られ、(4月22日発給の書状に「明日中」とあることから)4月23日には藤内光澄が斬首になったとする。周囲の木々が季節はずれの紅葉なのはご愛嬌。
※「広元」ではなく、「廣元」ですね。
※「北条四郎」は北条時政。

 さて、源義高と大姫の悲恋も悲しいが、藤内光澄、斬首も悲しい。
「なぜだー」
と叫びたくなる。

 『鎌倉殿の13人』では、北条政子が「断じて許しません」と言ったのを「源義高を殺した藤内光澄を断じて許しません。殺しなさい」の意味だと伝わって斬首にされたとするが、『吾妻鏡』の北条政子は、「依志水誅戮事、有此御病、偏起於彼男之不儀。縱雖奉仰、内々不啓子細於姫公御方哉」(源義高が殺されたことに依り、此の(大姫の)病気が起きた(大姫が、寝たきりになり、日に日に憔悴していった)のだから、これは、偏(ひとえ)に彼(か)の男(藤内光澄)の不義に依って起こったのである。たとえ『(源頼朝の)仰せに従っただけ』と雖(いえど)も、(なぜ)内々に子細を大姫に知らせなかったのか」と言ったとある。

「いくら御所がそう言われたからとて、すぐに飛び駄出すことことはないではないか。なぜ、ひとことこなたの耳には入れなかったのか」(永井路子「いもうと」)

 ━━では、藤内光澄はどうすればよかったのか?

 殺さずに生け捕りにすれば良かったのかな。
 後の話だが、徳川家康は、正室・築山御前の殺害を野中重政に命じた。野中重政が「殺してきました」と徳川家康に報告すると、徳川家康に「本当に殺したのか? 女なんだから(寺に連行して尼にするとか)別の方法もあったろうに」と言われて恐縮し、故郷(堀江村。現・静岡県浜松市西区舘山寺町)に戻って隠棲したという。

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