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阿部定次『長篠日記』

①原本『長篠日記』:阿部定次による記録を熊谷直定が天正6年に書写
②写本①「享保本」:小野田氏所蔵の『長篠軍談記』(享保16年8月)
③写本②「明和本」:佐藤氏所蔵の『三陽長篠合戦日記』(明和の初春)

※原本は明治元年の存在確認があるが、現在は消息不明。
※写本は「享保本」系と「明和本」系に分かれる。
 ・長篠城址史跡保存館所蔵本(136号) 「明和本」(昭和27年の謄写)
 ・長篠城址史跡保存館所蔵本(137号) 「享保本」(昭和26年の複写)
 ・長篠城址史跡保存館所蔵本(139号) 「明和本」(朱書の注あり)
 ・長篠城址史跡保存館所蔵本(518号) 「享保本」(明治27年の写本)
 ・長篠城址史跡保存館所蔵本(521号) 「明和本」(明治8年の写本)
 ・長篠城址史跡保存館所蔵本(603号) 「享保本」(文化12年の写本)
 ・長篠城址史跡保存館所蔵本(917号) 「享保本」(明治44年の写本)
 ・長篠城址史跡保存館所蔵本(999号) 「享保本」(明治3年の写本)
 ・長篠城址史跡保存館所蔵本(1019号)  「享保本」(成立年不明)
 ・長篠城址史跡保存館所蔵本(1293号)  「明和本」(享保6年の写本)
※昭和27年の謄写「明和本」によって『長篠日記』の存在が世に知られた。このため「『長篠日記』は明和2年(1765年)1月に成立」と誤解されている方が多いが、「享保本」は30年以上前の享保16年(1731年)8月に成立しているので、明らかに誤解である。

 阿部定次による『阿部之日記』(天正6年3月12日に熊谷玄蕃に寄贈)を天正6年12月に熊谷直遐が写したのが『長篠日記』であり、熊谷氏は「長篠の戦いに関する他の人の日記よりも信用できる」と評価している。しかし、学者は、
・天正6年~享保16年の間の写本が存在しないのは、おかしい。
・原本があったのなら享保本や明和本ではなく原本から写すはず。
・自分の研究内容を「参戦者に聞いた話」だと嘘をつく事はよくある。
として、「江戸時代の成立」とする。

※全文を掲載するかどうかは、スキの数と、この記事の売れ行き次第(でないとやる気が出ない。)


第1段

 天正元癸酉年七月二十日、三州山家三方、即ち筑手、田峯、長篠、依為属武田、菅沼新九郎正貞居城・長篠の城を、家康公、遠三両国の勢を以て攻め給ふ。(後略)

【現代語訳】 天正元年(1573年)7月20日(正しくは「元亀4年」。7月28日に「天正」に改元)、三河国の「山家三方衆」(即ち、作手奥平氏、田峯菅沼氏、長篠菅沼氏)が武田方に従属したので、長篠菅沼氏の菅沼正貞の居城である長篠城を、徳川家康は、遠江&三河2ヶ国の軍勢で攻めた。(注:山家三方衆の武田方への従属は、『中津藩史』では元亀元年、『改正三河後風土記』では元亀2年である。)

第2段

一、為属武田方え、遠三両国の先方、(後略)

第3段

一、天正三乙亥年二月二十八日、(後略)

第4段

一、後詰(後略)

第5段

一、其の前、長篠の城主・信昌、城中の粮を積もり見るに、当月の食にも足らず。急ぎ家康え此の旨注進し、信長公え後詰を乞い奉らんと計りしかども、敵、幾重ともなく取り巻きし故、鳥ならで通るべき様なし。此の如くにてわ、網に魚に同じからん。迚も可逃にあらず。
 「誰か我に先達て命を軽んじ、城を出て行き、信長公え此の旨を申すべし。落ち去るに及びなば、独りも残るべき者は無し」と宣ひける時、鳥井強右衛門(すねうえもん)進み出て、「某社(それがしこそ)君の命に替わり、諸卒の急難を救うべき由」申す。信昌、其の志(こころざし)を感じ、「左有らば何卒忍び出で、注進為すべし。併せて、1人にては心許(こころもと)無し。鈴木金七こそ水練上手なり。其の上、物馴れし者。是れと共に今夜城を出で、信長公え申し上ぐべき旨は『弓、鉄砲に事欠き申すにては、之無き候え共、城中の粮尽き、当月の内を過ぎ難く候。御出張延引に於いては、信昌一人切腹仕り、諸卒の命に替わり、城を勝頼に相渡すべく旨』委細に言上せよ」と云ふ。
 両人畏まりて、強右衛門申し鳧(け)るは、「我等、母一人、倅一人御座候。御運開き、御恩賞ましまさば、倅が才の程に順ひ、御計らひ座せ」と申して、家老の面々え云ひ鳧るわ、「今夜、此の囲いを出でなば、雁峯(かんぼう)峠に狼煙を上ぐべし。左有らば、弥(いよいよ)志を全(まっとう)して、信昌公え力を付けられ候え」と云ひて、両人共に城を忍び出る。
 五月十四日の夜、城西、岩石を伝え川に入る。武田の勢、幾重ともなく取り巻き、瀬毎に番を据え置く。大野川、滝川に鳴子を懸け置きし故、可通様更になし。然れども、鳥井、鈴木、元来水練の達者、川の案内、能く知りたり。
 小脇差を持ち、川を秘に潜り、長走(ながばしり)と云ふ所にも鳴子網を懸け、番人有り。網を切り抜く所を、番の者共、「怪しや」と詮議せしが、其の中に今井新介と云ふ者有りて、申し鳧るは、「斯る川にわ、五月時分わ大鱸有りて、網を切るものなり」とて、改むるに及ばず。
 夫より川を潜り、川路の早滝の下、広瀬と云ふ所にて上り、急ぎ雁峯(かんぼう)峠に登り、合図の狼煙を上ぐる。城中、是を見て悦ぶ事、限り無し。
 翌十五日、岡崎に着す。今夜、信長公、当所御泊まりと犇(ひし)めくに付き、「然らば当所に待ち請け奉りて言上すべし」とて、暫く休息して、酉の剋に至て、信長、御着し給いければ、早速、長篠篭城の次第、申し上ぐる。
 信長、聞こし召して、宣い鳧る様は、「誠に九八郎が命に替はり、是迄参じたる志、忠義の程、御感不斜社(こそ)思し召され、御返答までもなく、御供仕り候」と上意有り。強右衛門申し上げ鳧るは、「九八郎、無心許可存間、片時も早く罷り帰り、何卒城内え入て、安堵致させ申すべし」と御遑(いとま)を乞ひ罷り立つ。
 金七は、「中々城入為し難く、是に従り、立ち帰り貞能え申し上ぐるべし」迚(とて)、道にて互ひに詮議して、強右衛門許(ばか)り長篠の向かひ、篠原と云ふ所に来たり。「何卒城中え入るべし」と見計りしが、大川を隔てて柵を付け、鹿猪垣(ししがき)の間、真砂を蒔き、出入りの足跡を改め、厳しく舗囲鳧る故、途方に暮れて立ち彷徨(さまよ)う処に、穴山の与力・河原弥太郎、出合ひ、「怪しき振る舞いや。甲州勢にてわ有らず。其の上、行縢(むかばき)濡れたり」とて、合言葉を掛けて尋ねしに、一つも合はず。其の儘戒め、勝頼公陣屋の前に引き据えたり。
 逍遥軒を以て事の巨細を御尋ね有りしに、臆したる気色もなく斯様の事にて参じたりと答えければ、勝頼、聞こし召して、「神妙也。一命を助け、所領は望み次第に遣るべし。当家の臣と成り候え」と宣ひければ、「忝き御事」迚、落涙す。
 夜更け、事静まりて逍遥軒、申されるは、「其の方え頼み事有り。城中の戚(したし)き者を呼び出し、『信長、此の表、後詰の儀、思ひも依らず、我が手前にさえ持ち扱ひたり。早速城を渡し然るべき儀なり』と呼はり給え。勝頼可為悦」と申され鳧れば、「左有れば、暁天に呼び出し、右の旨、可申間、某に目代を御付け候え」と云ふ。
 之に依て、健成る侍十人計り相添へ、出しけり。柵際に立ち寄りて、親しき者を呼び出して、強右衛門社、「唯今帰りたり。近く寄て信長公の御返事の由、申さん」と云ひければ、「珍しき声也」とて、二人、出向かえば、「能く聞きて申すべし。信長公、当地え、二、三日の中に着かせ給ふぞ。丈夫に城を持ち給え。今生の名残、是迄也」と云ふも果てぬに、取りて伏せ、「只此の強右衛門を害し慰めや」と云ふ。
 勝頼、聞き給いて、「忠義の武士なり。助けるべし」と仰せられける社、「殊勝也。誠に武(たけ)き猛将なれども、流石、清和の嫡々にて、武田の家の棟梁とも云はれ給いし程社有り」と、敵、味方ともに感ぜらるは無し。
 終にわ、強右衛門、長篠の向かひ、有海原にて機(はた)ものに懸けらるる也。
 強右衛門嫡子・亀千代に、奥平九八郎信昌より感状賜る。其の文、言ふに曰く、

一、今度、長篠に於て、亡父、死を軽んじ、忠義、比類無し。互感、云ふに足らず。之に依て、其の方、幼少と雖も、五百貫文加増し、合はせて八百貫文宛行者也。
 天正三年亥五月  信昌(判)
    鳥井亀千代とのへ

【現代語訳】 前段で述べた「織田信長の岡崎城到着」の前の話であるが、長篠城の城主・奥平信昌が城内の兵糧を見積もると、今月(5月)の分もなかった。急いで徳川家康にこの現状をお知らせし、織田信長に援軍をお願いするという策を考えたが、敵(武田軍)が城を何重にも取り巻いているので、鳥でしか通れなかった。この状況は、網にかかった魚と同じであろう。とても逃げられるとは思えない。
 奥平信昌が「誰か、私よりも先んじて命を軽んじて(危険を冒して)長篠城を出て行き、織田信長へ現状を報告して欲しい。このままでは、落城の際には、一人も生き残らない」と言った時、鳥居強右衛門が進み出て、「私がの主君・奥平信昌の命に替わり、城兵の危急を救いましょう」と言った。奥平信昌は、彼の志に感じ入り、「そうであるならば、どうか城から忍び出で、織田信長へ報告せよ。あわせて、1人では安心できない。(豊川を泳いで脱出することになろうが)鈴木金七郎は水泳が得意である。その上、物馴れしている。鈴木金七郎と共に今夜(5月14日の夜)、長篠城を出で、織田信長に申し上げる内容は『弓や鉄砲は不足していない。しかし、城内の兵糧は尽きて、今月(5月)中にはなくなる。織田信長の出兵が遅れれば、奥平信昌1人が切腹し、城兵の命を助けてもらうという条件で、長篠城を武田勝頼に明け渡す所存である』である。詳しく申し上げろ」と言った。

※鳥居強右衛門勝商(36歳。幼名・兵蔵)の父・兵助は農民で、鳥居勝商は「武士になりたい」と行って家を出て、奥平貞能の陪臣から奥平信昌の直臣に出世したという。知行は300貫で、亀千代に500貫与えられて800貫(1600石)になったとするが、『鳥居家系譜』では、亀千代は8歳で、知行は100石与えられたとする。

第6段

一、信長公(後略)

予て定め置きし諸手の鉄砲三千挺、「足軽大将佐々内蔵ノ助、前田又左衛門、福富平左衛門、塙九郎左衛門、野々村三十郎、徳山五兵衛、丹羽勘助等、下知次第」と仰せ付けられ、「敵、馬を入れ来たらば、一町迄も打つべからず。間近く引き請けて、千挺宛(ずつ)放ち掛け、一段宛、立ち替わり打つべし。敵、猶も強く馬を入れ来たらば、少し引き退き、敵、引かば、引き付けて放させよ」と下知し給いて、柵際より十町斗り乗り出し給ひ、軍中へ大筒を放ち懸けさせ給へば、色めき立ちて、見えたり。

弥(いよいよ)甲州勢、崩れ立ちたり。馬場美濃守は、未だ手も負はず。700人の人勢は大方討死。或るは手負ひ引き退く。
 漸(やうや)く80余騎計りになりたり。「同心、被官は何も引き退き候へ」と相断る。穴山は責め合ひもなく引き退く。
 一条右衛門は、美濃守と一所に出沢(すざわ)の谷に罄(つき)たり。一条が同心、和田の某(なにがし)、弓矢利発なる者にて、馬場美濃守に向ひて「御下知候へ」と云ふ。
 美濃守、莞爾と笑ひ、「引くより外は無し」と云ひて、後の出沢が谷の小高き所に登りて、「馬場美濃と云ふ者なり。首を取れ」と名乗り鳧(けれ)ば、原田備中が家来、首を取る。
 此の時、6人にて鑓を以て突き候へども、美濃守は西方に向て合掌し、敵の方へ見向いもせず居たり。原田が家来、河合三十郎と云ふ者、首を打て取るなり。

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