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浜松城の変遷

1.引間城

 引間城は、いつ、誰が築城したのか分からない。
 『浜松御在城記』に「此の古城は、久野佐渡守末子・中越中守屋鋪を、永正の頃、三善為連と申す仁、城に取り立て候之由、及び承り候」とあり、『曳駒拾遺』や『遠江国風土記伝』も同説を支持する。
 しかし、学者は、『宗長手記』の「吉良殿の内、巨海新左衛門尉、この庄(注:浜松庄)を請所にして在城。よき城(注:引間城)を構え」を支持し、巨海新左衛門尉の築城とする。詳しく書けば、「浜松庄の所有者・吉良氏の被官(家老、奉行)・大河内備中守貞綱(寺津城(愛知県西尾市寺津町御屋敷)の城主・大河内氏の本貫地については諸説あり)は、椿屋敷に住んだ(浜松市中区領家の屋敷に住んだとも)が、彼の弟・巨海新左衛門尉(巨海氏の本貫地は愛知県西尾市巨海(こみ)町)は、立派な引間城を建てて住んだ」となろう。(ただ、「この庄=浜松庄、よき城=引間城」説に異議を唱える学者もいる。)

※『宗長記』
https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/2089/GKH019302.pdf

 その後、浜松庄の荘官・大河内備中守貞綱は、今川氏に背いた堀江下野守に与したので、伊勢宗瑞(北条早雲)率いる今川軍に攻められて破れ、浜松庄の荘官として今川家家臣・飯尾善四郎賢連が引間城主として入った。

浜松八幡宮:実は、海岸の遠江国敷知郡浜津郷にあった式内・許禰神社だという(「浜松」北遷説)。許禰神社に八幡神を祀り、「浜松八幡宮」と改称したのは、城の北東にあたるので、鬼門封じのためだという。

椿姫塚と椿姫観音:引間城主・飯尾賢連の孫・飯尾豊前守連竜は、妻・お田鶴の方と共に駿府に呼び出されて誅殺された。椿屋敷の一角に建てられた椿姫観音は、椿姫塚に眠るお田鶴の方の鎮魂のために建てられたというが、実は、椿姫塚は、伊勢宗瑞に攻められた大河内備中守貞綱の妻の墓だという。

※蛇屋敷:蛇屋敷とは、明治6年9月に廃寺となった「東海道一の尼寺」の瑞泉庵のことで、明治6年9月以降の呼称であり、この時代にはこの呼び名はなかったと思う。

※遠江分器稲荷神社:遠江国分器(地名)にある稲荷神社。地名「分器」の由来については、①「分器」とは度量衡のことで、このあたり一帯に尺貫法の元締めとなる役人の住居があったからとする説と、②浜松城の「御器蔵」があり、食器類が保存されていたことからとする説がある。
 この稲荷神社は、「大河潤礼」では「徳川家康が浜松に入った永禄11年(1568年)に創建された」と紹介されたが、実はもっと古くに引間宿の南限に建てられ、徳川家康が浜松に入ると「徳川四天王」本多忠勝の屋敷神になったという。いずれにせよ、この神社以北が「引馬宿」である。

※2つの東照宮
①古城(引間城跡)の「元城町東照宮」
・明治19年、幕臣・井上延陵が創建し、遠江国報徳社に管理を委託
・昭和11年、元城町に管理が移転
・昭和33年、浜松空襲で破損したが再建
 以上、藤井義信『元城町東照宮の由来』(2009)参照
②浜松城二の丸跡の「東照宮」(現「三方原神社」)
・明治31年、幕臣たちが浜松に移住して二の丸跡に「東照宮」を創建
・明治34年、「元城神社」と改称
・大正12年、三方原に遷座して名称を「東照宮」に戻す。
・昭和31年、「三方原神社」と改称

2.徳川家康在城期の浜松城

 徳川家康は、引間城の西の丘陵部に中心部(本丸)を移すと共に、南へ拡張した。また、「作左曲輪」「鳥居曲輪」という出丸も設けた。

この時期の浜松城でよく問題にされるのが、
・石垣はあったか?
・天守はあったか?
であるが、「低い石垣はあったが、天守は無かった」と思われる。

3.堀尾吉晴在城期の浜松城

 この時期の絶景は、「東西にのびる大手道から、天守門越しに天守を見ること」である。今まで、この風景を見ることは出来なかったが、天守門が再建され、元城小学校が中部中学校に統合されて解体されたことにより、見られるようになった。

4.江戸時代の浜松城

 この時期の特徴は、大手門が南側に作られたことである。
 残念なことに、浜松城のほとんどが市街地化されている。三の丸には建物が建ち並び、大手門は現存しない。古城にも建物が建てられ、二の丸には市役所が建てられ、「浜松城は狭い」と錯覚されている方が非常に多いが、実は広い。


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