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星月夜鎌倉

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「星月夜」と聞けば、オランダの画家のフィンセント・ファン・ゴッホの絵(1889)を思い出す。原題は「La nuit étoilée(ラ・ニュイ・エトワーレ)」である。
La:女性名詞につく定冠詞
nuit:「夜」という名詞
étoilée:「星の出ている」という意味の形容詞
全体で「星月夜」(英語では「The starry night」)。

──どこかおかしいぞ!? 違和感あり!

日本の「星月夜」は、俳句では秋の季語で、「星の光が月光のように明るい夜」「星明かりの夜」「星降る夜」の意味です。「月が出ていないのに、月が出ているかのように明るい夜空」を指します。
 星の光は、月光のように明るくはないが、月がなければ明るく見えるので、私は「満月の夜」を「満月夜」と言わずに「十五夜」と言うように、「新月の夜」を「新月夜」と言わずに「星月夜」と言ったのではないかと考えています。「星月夜」は星の状態「The starry night」ではなく、月の状態「The Moonless night」だと。
 「星-夜」ではなく、風流に星を月に見立てて「星月-夜」と言うから月があるように思えてしまう。ゴッホの絵を見て日本人が違和感を覚えるのは、月が出ているということです。月があるのに星が明るい。

『精選版 日本国語大辞典』で「星月夜」を見る。

■『精選版 日本国語大辞典』「ほし‐づきよ【星月夜】〘名〙」
① 星の明るい晩。月が出ていないで、星だけが輝いている夜。星明りの夜。《季・秋》
※狭衣物語(1069‐77頃か)四「ほし月夜のたどたどしきに烏帽子のきと見えたるに心惑ひし給ひて」
※永久百首(1116)雑「我ひとりかまくら山を越行は星月夜こそうれしかりけれ〈肥後〉」
② 「暗」と同音の「倉」を含む「鎌倉」にかかる修飾語。主として謡曲で枕詞ふうに用いられた。
※謡曲・調伏曾我(1480頃)「箱根詣でのおんために、明くるを待つや星月夜、鎌倉山を朝立ちて」
③ 地名「鎌倉」、あるいはそれに縁のある「鎌倉将軍」(源頼朝)、「松ガ岡」(東慶寺)などを暗示的に表わす。
※北国紀行(1487)「今もなほ星月夜こそ残るらめ寺なき谷の闇のともしび」
④ 植物「ゆうがぎく(柚香菊)」の異名。
[語誌]歌語としての初出は①の挙例「永久百首」の肥後の作で、これは意図的に珍しい語を用いたもの。しかし、「夫木和歌抄」にも採られたこの歌の影響は大きく、連歌では付合(つけあい)で「鎌倉山」に縁のあることば(寄合)となり(一条兼良「連玉合璧集」)、謡曲では②のように「鎌倉」の飾り詞として用いられるようになる。これは、平安期には珍しい歌枕のひとつにすぎなかった「鎌倉」が、頼朝登場以降は重要地名となり、寄合・飾り詞の需要が増したためでもある。

 ① が本来の意味。「ほしづき‐よ」(星が月の替わりに光を放つ星月の夜)ではなく「ほし‐づきよ」(星が綺麗な月夜)とある。「月夜」ではないと思うが・・・。
 ②「星月夜」は、「鎌倉」に掛詞のように掛かる修飾語ですが、「鎌倉」の「鎌」じゃなくて、「倉」にかかるって、かなり強引。夜に覗くと水面に星が映っているの見える井戸が鎌倉にあるからでは?

  邂逅に行きても見しが醒が井の古き清水に宿る月影(源実朝)

 ③地名「鎌倉」の語源は「鎌倉式横穴墳がある場所」でしょう。地名「星月夜」(地名「鎌倉」の異称)の語源は「星月夜の井戸がある場所」でしょう。鎌倉=星月夜であれば、鎌倉将軍=鎌倉殿=星月夜殿となり、特に源頼朝のことを「星月夜」と呼ぶそうですが、源頼朝よりも源実朝っぽい(月は北条義時で、星が源実朝)。

・『鉄道唱歌』
 北は円覚建長寺 南は大仏星月夜 片瀬腰越江の島も ただ半日の道ぞかし♪

・鎌倉市の旧市章は「星月夜」の「星」。

※『風に吹かれて鎌倉見聞_2022』「鎌倉の「星月のマーク」を見る」
http://kama-kenbun1.seesaa.net/article/425743563.html
※「星月夜の井と鎌倉山」
https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/yokohama/exhibition/utamakura/utamakura-map/map11.html

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 『鎌倉星月夜』という講談がある。「星月夜」=「鎌倉」であれば『鎌倉鎌倉』になってしまうし、「星月夜」=「鎌倉の修飾語」であれば『星月夜鎌倉』だと思うが、・・・『鎌倉星月夜』の内容は「和田合戦」で、山場は「荏柄平太縄付き問答」と「朝比奈が門破り」である。なお、歌舞伎にも『星月夜聞実記』(市川団十郎が得意とする演目「新歌舞伎十八番」内の『荏柄問答』)がある。

※太陰暦では、毎月1日が新月(星月夜)で15日が満月(十五夜)である。「和田合戦」は5月2日から翌3日に行われた。2日の夜戦では、御所が焼かれた。この2日の夜戦は「星月夜の星明りのもとで行われた」と言っても差し支えない。

 『鎌倉星月夜』によれば、執権・北条義時の次男・名越次郎朝時(北条朝時)は、奥女中取締役・松島局(藤原親康の娘)が好きになり、結婚を申し込むが断られる。一方、松島局は、和田義盛の三男・朝比奈三郎義秀(朝夷奈義秀)が好きになり、婚約する。北条政子が、可愛い甥・名越朝時のために、朝比奈義秀と松島局の婚約を解消させ、名越朝時と松島局を無理矢理結婚させようとするが、悩んだ松島局は辞世を残して自殺した。

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▲松島の辞世

  有りし世の薄き縁(えにし)は如何(いか)にせん
                君忘れめや 後の契りを

 『鎌倉星月夜』では、松島局の死が元で、和田家と北条家の仲が悪くなり、「和田合戦」に発展したとする。(『吾妻鏡』(建暦3年3月9日条)では、「泉親衡の乱」後に和田胤長が許されなかったことが「和田合戦」に発展したとする。)

三浦義継┬三浦義明┬杉本義宗──┬和田義盛┬長男・和田常盛─和田朝盛
    │     │      ├和田義茂├次男・和田義氏─和田重盛
    │     │      ├和田義胤├三男・朝夷奈三郎義秀
    │     │      │    ├四男・和田四郎左衛門尉義直
    │     │      │    ├五男・和田五郎兵衛尉義重
    │     │      │    ├六男・和田六郎兵衛尉義信
    │     │      │    ├七男・和田七郎秀盛
    │     │      │    └八男(末子)・杉浦義国
    │     │      ├和田義長─和田平太胤長
    │     │      └和田宗実─藤原秀宗─藤原秀康
    └岡崎義実├三浦義澄──┬三浦平六義村┬三浦泰村
           ├大多和義久 └三浦九朗胤義└女子(北条泰時正室)
           ├多々良義春 ─多々良重春
           ├長井義季
           ├杜戸(森戸)重行
           └佐原義連  ──佐原景連

 信濃源氏・泉親衡が北条義時を討とうとすると、和田義盛の四男・和田義直、五男・和田義重、甥(弟の子)・和田胤長(荏柄平太胤長)が賛同した。(和田義盛は鎌倉にいなかったので、誘えなかった。)ところが、この「泉親衡の乱 」は事前に発覚し、泉親衡は逃亡し、和田義直、和田義重、和田胤長は逮捕された。逮捕の知らせを聞いて驚いた和田義盛は鎌倉に駆けつけて助命嘆願をすると、息子の和田義直と和田義重は、これまでの和田義盛の功績により放免されたが、甥の和田胤長は屋敷を没収され、流罪となってしまった。和田胤長の屋敷は、御所の近くの一等地にあり、誰もが欲しがったが、和田義盛に与えられた。ところが突然、北条義時に与えられることに変更され、旧・和田胤長屋敷に北条義時の郎党が押し寄せて、和田義盛の郎党を追い出したので、今度は和田義盛の郎党が北条義時の屋敷に攻め込み、「和田合戦」が始まった。なお、この「和田合戦」では、北条義時の次男・名越次郎朝時(北条朝時)と和田義盛の三男・朝比奈三郎義秀(朝夷奈義秀)が一騎打ちをしている。

・『荏柄平太 : 鎌倉星月夜』
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/889571
・一龍斎貞弥『鎌倉星月夜』(『講談るうむ』)
http://koudanfan.web.fc2.com/arasuji/02-24_kamakurahosi.htm

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 このあたりのことを、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では、次のようにまとめている。

■フリー百科事典『ウィキペディア』「北条朝時
 建暦2年(1212年)5月7日、20歳の時に将軍・実朝の御台所(西八条禅尼)に仕える官女である佐渡守親康の娘に艶書を送り、一向になびかないので深夜に娘の局に忍んで誘い出した事が露見して実朝の怒りを買ったため、父義時から義絶され、駿河国富士郡での蟄居を余儀なくされる。1年後の建暦3年(1213年)、和田合戦の際に鎌倉に呼び戻されて兄の泰時と防戦にあたり、勇猛な朝比奈義秀と戦って負傷するも活躍した。その後、御家人として幕府に復帰する。

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の出典と思われる『吾妻鏡』には、次のように記されている。

■『吾妻鏡』「建暦2年(1212年)5月7日辛酉」条
建暦二年五月小七日辛酉(注:壬子の誤り)。相摸次郎朝時主、依女、事蒙御氣色。嚴閤、又、義絶之間、下向駿河國富士郡。彼傾公、去年自京都下向佐渡守親康女也。爲御臺所官女。而朝時耽好色、雖通艶書、依不許容、去夜及深更、潜到彼局、誘出之故也云々。

(建暦2年(1212年)5月7日。北条朝時は、女性問題により、将軍・源実朝の怒りをかった。嚴閤(父・北条義時)も、また、義絶(親子の縁を切ること。勘当)したので、駿河国富士郡へ下った。その傾城(美女)は、去年京都から下ってきた藤原親康(親泰)の娘・松島局である。将軍・源実朝の正室の官女である。北条朝時は、夢中になり、艶書(ラブレター)を送ったが、受け入れられなかったので、ある日の深更(しんこう。深夜)、松島局の部屋へ忍びこんで、誘い出したので(源実朝は怒り、北条義時には)義絶されたのだという。)

※駿河国富士郡:阿野荘か。一説に伊豆国田方郡江間荘で、北条朝時を「江間氏の祖」とする説がある。

※松島局:『鎌倉殿の13人』では「御所の女房・よもぎ」。キャストの「さとうほなみ(佐藤穂奈美)」は、バンド「ゲスの極み乙女」「マイクロコズム」のドラムス担当「ほな・いこか」の俳優名。さとうほなみは、『六本木クラス』(2022年7月7日 - 9月29日、テレビ朝日)では、生まれた時の身体的性は男性だが、性自認は女性というトランスジェンダー・綾瀬りくを演じ、『鎌倉殿の13人』では同性愛者・源実朝の側室候補を演じた。これはキャスティングにおける洒落であろう。無くてもいい三浦義村とトウの格闘シーンを入れたのは、俳優が山本耕史と山本千尋なので、「山本対決」という洒落であろう。
https://news.yahoo.co.jp/articles/01277421c7b274554cc6b0321adf184e554d999f

 以上のように、『吾妻鏡』には、和田義盛の三男・朝比奈三郎義秀(朝夷奈義秀)は登場せず、北条義時の次男・名越次郎朝時(北条朝時)のみが登場し、「潜到彼局、誘出之」(松島の局に潜入し、松島局を誘い出した)ので、北条朝時は、源実朝は怒りをかい、父・北条義時に義絶されたとある。当時、夜這いは普通にあることで、それが理由で義絶されることはない。誘拐(拉致、監禁)したことが問題なのであろう。

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