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第39回「太閤、くたばる」(復習)

【徳川家康略年表】
天文11年(1542年)12月26日 竹千代(後の徳川家康)誕生
天文24年(1555年)3月   竹千代(後の徳川家康)、元服
永禄3年(1560年)5月19日 「桶狭間の戦い」(岡崎城へ帰還)
永禄4年(1561年)4月11日 「牛久保城攻め」(今川氏から独立)
永禄5年(1562年)1月15日 「清須同盟」(織田信長と和睦)
永禄5年(1562年)2月4日  「上ノ郷城攻め」(人質交換)
永禄6年(1563年)7月6日  「元康」から「家康」に改名
永禄6年(1563年)10月   「三河一向一揆」勃発
永禄7年(1564年)2月28日 「三河一向一揆」終結
永禄8年(1565年)11月11日 二女・督姫(母:西郡局)誕生(旧説)
永禄9年(1566年)5月      松平家康、三河国を平定
永禄9年(1566年)12月29日「松平」から「徳川」に改姓。「三河守」に。
永禄11年(1568年)10月   織田信長、足利義昭と共に上洛
永禄11年(1568年)10月18日 足利義昭、征夷大将軍に任官
永禄11年(1568年)12月6日 武田信玄、駿河国へ侵攻開始(第1次侵攻)
永禄11年(1568年)12月13日 徳川家康、遠江国へ侵攻開始
永禄11年(1568年)12月18日 徳川家康、引間城を奪取
永禄12年(1569年)5月15日  掛川城、開城(遠江国平定)
永禄13年(1570年)3月    徳川家康、上洛
元亀元年(1570年)4月30日 「金ヶ崎の退き口」  
元亀元年(1570年)6月28日 「姉川の戦い」
元亀元年(1570年)9月12日  徳川家康、浜松城に移る。
元亀元年(1570年)10月   徳川家康が、武田信玄との同盟を破棄
              →上杉謙信と「三越同盟」を締結
元亀元年(1570年)11月   松平勝俊、下山を脱出して浜松へ至る。
元亀3年(1572年)10月3日 武田信玄、「西上作戦」を開始
元亀3年(1572年)12月22日 「三方ヶ原の戦い」
元亀4年(1573年)4月12日 武田信玄、死没。享年51。
天正2年(1574年)2月8日  お万の方、於義丸(後の結城秀康)を生む。
天正2年(1574年)6月18日 武田勝頼、高天神城を落とす。
天正3年(1575年)3月19日 武田勝頼、足助城を落とす。
天正3年(1575年)4月3日   大岡弥四郎忠賀、刑死(鋸挽きの刑)
天正3年(1575年)5月16日 鳥居強右衛門勝商、刑死(磔刑)
天正3年(1575年)5月21日 「設楽原の戦い」
天正3年(1575年)12月24日 二俣城、開城
天正3年(1575年)12月27日 水野信元、誅殺。享年不明(50代前半?)。
天正4年(1576年)12月22日 亀姫、奥平信昌と結婚(7月説あり)
天正4年(1576年)3月     五徳、長女・登久姫を生む。
天正5年(1577年)7月     五徳、次女・熊(国)姫を生む。
天正6年(1578年)3月     徳川家康、西郷局と結婚
天正7年(1579年)4月7日  西郷局、長松(長丸、徳川秀忠)を生む。
天正7年(1579年)8月29日   築山殿、殺害さる。享年不明(38?)。
天正7年(1579年)9月15日   松平信康、自害す。享年21。
天正8年(1580年)8月25日   佐久間信盛を追放(「19ヶ条の折檻状」)
天正9年(1581年)3月22日   岡部元信、討死(「高天神城の戦い」)
天正10年(1582年)3月11日 武田勝頼、死没(武田氏滅亡)。享年37。
天正10年(1582年)4月10日~4月21日 織田信長の凱旋旅行
天正10年(1582年)6月2日  織田信長、死没(本能寺の変)。享年49。
天正10年(1582年)6月5日  徳川家康、三河国へ帰還(神君伊賀越え)
天正10年(1582年)6月27日 清洲会議・秀吉、信長の嫡孫・三法師を擁立
                  ・お市の方、柴田勝家と再婚
天正11年(1583年)3月12日 柴田勝家、敗北(「賤ヶ岳の戦い」)
天正11年(1583年)4月24日 柴田勝家、北ノ庄城にてお市と共に自害。
天正12年(1584年)3月~11月 「小牧・長久手の戦い」
天正12年(1584年)12月12日 徳川家康の次男、羽柴秀吉の養子に。
天正13年(1585年)7月11日 秀吉、関白になる。
天正13年(1585年)11月29日 天正地震
天正14年(1586年)5月14日 朝日姫、徳川家康の正室(継室)に。
天正14年(1586年)9月9日   秀吉、正親町天皇から豊臣の姓を賜る。
天正14年(1586年)10月26日 徳川家康、大坂に到着、豊臣秀長邸に宿泊
天正14年(1586年)10月27日 徳川家康、大坂城において秀吉に謁見。
天正14年(1586年)11月5日 徳川家康、正三位に叙される。
天正14年(1586年)11月12日 大政所を秀吉の元へ送り返す。
天正14年(1586年)12月4日 本城を浜松城から駿河国の駿府城へ移す。
天正16年(1588年)1月13日 足利義昭、将軍を辞して出家。昌山と号す。
天正17年(1589年)5月19日 西郷局(於愛の方)、死没。享年28。
天正17年(1589年)5月27日 茶々、棄(鶴松)を生む。
天正18年(1590年)1月14日 朝日姫、死没。享年47。
天正18年(1590年)2月~7月5日   小田原征伐→徳川家康、関東移封
天正18年(1590年)8月1日   徳川家康(49歳)、江戸城に入城
天正19年(1591年)1月22日 豊臣秀長、死没。享年52。
天正19年(1591年)8月  5日 鶴松、死没。享年3。
天正20年(1592年)~文禄2年(1593年)朝鮮出兵「文禄の役」
天正20年(1592年)7月22日  大政所、死没。享年77。
文禄  2年(1593年)8月  3日  茶々、拾(後の豊臣秀頼)を生む。
慶長元年(1596年)10月28日 酒井忠次、死没。享年70。
慶長元年(1596年)11月14日 服部半蔵、病死。享年56。
慶長  2年(1597年)~慶長3年(1598年)朝鮮出兵「慶長の役」
慶長  3年(1598年)8月18日  豊臣秀吉、死没。享年62。
・・・(今回ここまで)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
慶長  5年(1600年)9月15日  徳川家康、天下人になる(関ケ原の戦い)。
慶長  8年(1603年)2月12日  徳川家康、江戸幕府を開設
慶長19年(1614年) 「大坂冬の陣」
慶長20年(1615年) 「大坂夏の陣」(豊臣秀頼、大野治長、茶々、自害)
元和  2年(1616年)4月17日  徳川家康、死没。享年75。


 徳川家康は「白兎」から「狸」になった。
 徳川家康は「天下人は無用に存じまする」と言う石田三成の合議制(昨年の大河の13人の合議制のようなもの)に「賛成する」と言ったが、心の底では、慶長元年(1596年)7月末の酒井忠次の遺言ともいうべき
「天下をお取りなされ」
という言葉が響いていた。

酒井忠次「殿、1つだけ願いを残してようございますか? 天下をお取りなされ」
徳川家康「天下人など。嫌われるばかりじゃ。信長も、秀吉にも出来なかったことが、このわしに出来るか?」
酒井忠次「殿だから出来るのでござる。戦が嫌いな殿だからこそ。嫌われなされ。天下を取りなされ」

さすが豊臣秀吉である。
──見抜いていた。
「白兎から狸になった」「合議制は上手くいかぬ」と指摘し、徳川家康が次の天下人になると見抜き、子・豊臣秀頼を託した。
 そして、この2人の話を盗み聞きしたのであろうか? 茶々が登場した。
「秀頼は。あなたの子だとお思い? 秀頼は、この私の子。天下は(徳川家康には)渡さぬ。あとは私に任せよ、猿」
と言った。昨年の大河の尼将軍・北条政子のようなものか。


<今回の疑問>

①酒井忠次の言葉
 1回目では「天下をお取りなされ」。
 2回目(回想)では「天下を取りなされ」と強い口調。
②豊臣秀吉が死んだ時の茶々の涙
 私が演出家なら、ニヤリと笑わせるけどね。
 史実では、最期を看取ったのは、正室の寧々かと。
③「内府」の読み方
「ないふ」なのか、「だいふ」なのか、統一されていない?


■紀行は酒井忠次

酒井左衛門尉家6代(①広親~⑥忠善)の墓(回向院)

※酒井家代々の墓は岡崎市の回向院にあるが、晩年の酒井⑦忠次は京都桜井に住んでおり、墓は、京都の知恩院にある。


★今後の『どうする家康』

・第40回「天下人家康」(10/22)
・第41回「逆襲の三成」(10/29)
・第42回「」(11/5)
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