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徳川家康の正室の呼称

 幼名は「於福」、もしくは「阿鶴」とされているが、地元には「瀬名姫」「お瀬名」と呼ばれていたとする伝承があるという。

他の呼称には、
①「関口」(『武徳編年集成』に「関口、或いは、瀬名と称す」)
②「瀬名」(『武徳編年集成』に「関口、或いは、瀬名と称す」)
③「瀬名女中」「新造」(『言継卿記』)
④「駿河姫(駿河御前)」(駿河国から岡崎に来た正室)
⑤「築山殿(築山御前)」(岡崎の築山に住む正室)
⑥「信康殿御母様」(『家忠日記』)
がある。

 ①②徳川家康の正室の父親は瀬名氏興(瀬名氏貞の次男。長男・瀬名貞綱の弟)であるが、関口氏の娘婿となり、後に関口刑部少輔家を継いで関口氏純と名乗った。徳川家康の正室の呼称は、父親が瀬名氏興と名乗っている時代は「瀬名」、関口氏純と名乗っている時代は「関口」であろう。
 なお、史料に登場する「関口御新造」とは、関口氏純の妻のことである。

 ③某有名歴史学者が『言継卿記』に「瀬名女中」とあることを発見して新聞発表し、某有名歴史系You tuberが紹介していたが、誤りである。
『言継卿記』「弘治2年11月28日条」に、
「瀬名女中へ(号新造、太守之姉、中御門女中妹也)麝香丸五貝、自老母取次遣之」(瀬名女中(「瀬名御新造」と呼ぶ。今川義元の姉・中御門女中女(中御門宣綱室)の妹)に「麝香丸」(丸薬「延寿反魂丹」の通称)を5貝(「貝」は、練り薬や丸薬などを入れた容器(貝殻)を数えるのに使われる助数詞)、老母に取り次いでもらって渡す)
「弘治3年2月2日条」に、
「瀬名女中(大方女、中御門之妹)」(瀬名女中(寿桂尼の娘、中御門宣綱室の妹))
とあり、『言継卿記』の「瀬名女中」「新造」は、中御門宣綱室の妹で、三男・今川義元の姉の瀬名氏俊室のことであることが分かる。
 なお、「女中」とは、「家事の手伝いをする女性。 お手伝いさん」ではなく、「婦人」の敬語である。

 ④の「駿河姫(駿河御前)」は、あまり聞かない。
 徳川家康の継室・朝日姫(旭姫)が駿河国府中(駿府)に居を構えて「駿河御前」と呼ばれたので、混乱を避けるために使わないのであろう。

 ⑤築山は、岡崎の地名である。妖狐を封じた人工の築山があったことが地名の由来である。(山頂に築山稲荷があった。田中吉政が崩したという。)
 「築山殿(築山御前)」ではなく、「岡崎殿(岡崎御前)」「三河殿(三河御前)」でもよさそうであるが、普通「岡崎殿/三河殿」といえば、徳川家康を指す。
 築山御前屋敷について、以前は「総持尼寺内にあり、女性しか出入りできなかった」と考えられていたが、今では「総持尼寺の向かいにあり、老若男女が出入り自由だった」と考えられており、『どうする家康』でも採用された。誰でも出入り自由であったので、武田信玄の間者(スパイ)が出入りして、築山殿を調略(洗脳)したという。

 ⑥『家忠日記』「天正6年2月4日条」に、
「大雪ふり、三尺。信康御母さまより音信被成候」(大雪で、雪が3尺(約91cm)降り積もった。徳川信康の母様から手紙が来た)
とある。「築山御前」としなかったのは、永禄末に離婚していたからであろう。なお、『家忠日記』の「殿」は徳川家康、「上様」は織田信長を指す。(この頃の築山殿は、岡崎城外の築山御前屋敷ではなく、岡崎城内の東曲輪に住んでいたという。離婚により、二の丸には入れてもらえなかったのであろう。)
 手紙の内容は不明だが、時期的に考えて、「岡崎城主・信康と浜松城主・家康が不仲であるが、信康に味方して欲しい」といったところか。


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