PITという場にボクが提供すること

学生とは、学びたい生き物である

今から8年ぐらい前、ボクがまだ社会人1年目か2年目ぐらいだった頃、大学時代の友人に100人で行うキャンプに誘われた。そのキャンプには大学生の参加者が多く、自分が社会人だったこともあり、最初は溶け込みにくかった。一歩引いたところからタバコばかりを吸い、冷めた目で眺めていた。自分が慣れはじめたのは、飯盒炊飯で火おこしをしだした頃。それまで、周りの目も気にして積極的に参加はしなかったんだが、火を熾すという一点においてしっかりと関わったことにより、溶け込み始めることができた。夜には、コンテンツがあり、グループでディスカッションをした。当時のボクは雇われだったが塾で塾長という仕事をしていた関係もあり、教え子と同じ年の参加者が一生懸命に話している姿を見て、微笑ましくみていた。一歩引いた視点で。まとまらない話題に、ヒントを上げようと話に軸をつくり考えてみることを提案した。それで、話は終わるだろうと思っていた。しかし、そのグループに居た当時大学4回生だった男の子が、ボクの意見を受入れた上で自分の意見でみんなを納得させた。その頭の良さに驚愕し、ボクはますますこの輪の中に入っていった。

キャンプ中は、代表が仕切りに「ありがとう」という言葉を多様していた。また参加者全員に対してトイレのスリッパを綺麗に並べていることを褒めていた。すると、参加者同士もありがとうという言葉が増え、また互いに貢献し合う姿勢が生まれていた。最後スタッフには、良い涙があり、それを参加者は讃えた。

自分が感動したキャンプが終わると当時18歳のスタッフの女の子がミーティングに誘ってくれた。四条のマクドナルドでミーティングをしていた。仕事終わりに参加させてもらい、話の輪に加わった。20人ぐらいの人がいたように思う。そこでの話題は「人の原動力とはなにか」であった。テーブルの中心にコピー用紙を並べて、議論を深めていっていた。翌日もまた、ミーティングに誘ってもらった。またその翌々日も。議題は変わらず、「人の原動力とはなにか」についてであった。当時のボクが驚愕したのは、全日まで話をしていた内容は毎回まっさらになり、また一から議論をしていたということだった。

無駄ではないか。当時のボクは最初そうおもったのだが、このミーティングをした結果、あの自分の感動したキャンプがあった。事実、このミーティングにも毎日20人以上が集まっていた。次第にこう思うようになっていった。「ここにはボクが知らないことがあると」

しばらくし、ボクはその本質をつかんだ。これは会議ではない。勉強会である。ここにいるスタッフは、キャンプをつくりに毎日来ているのではなく、自らが学ぶために、自らのために来ているんだ。自らが得れる場所だからここにいる。


PaKTは5年前から毎週1回会議(PIT)を催していて、その会議が勉強会である理由は参加する人の為である。参加した人が一番持って帰れるよう、プレゼントにあふれた場所をツクっている。

先週のPITと今週のPITにおいてもコンテンツ提供をしてきた。先週は自信をもつためのコンテンツ。自信コンテンツは、内在するコンプレックスと外的評価の積み重ねの自信を定義付し、恥ずかしさから嬉しさへの変化とともに仲間を意識し、相手を見る視点を得れるように設計した。今週は葬式コンテンツ。葬式コンテンツでは、死を意識することで、どう生きるかを考えられるように設計し、またエピソードを話す視点がいかに人の輪郭を捉えるのかを体験出来るように組んだ。

人を集めるのではなく、人が集まる場所へ。人が集まらないのであれば、集まらなかった人の責任ではなく、自分の責任。人が集まりたくなる場所をツクること。

                  PaKT統括/教育デザイナー 松榮秀士

PaKTの勉強会兼会議・毎週水曜日19時〜開催。
参加費無料。
ボクがいるのはこっち→
@PaKT下鴨事務所(マナビノバしもがも教室内)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?