【何度でも約束を】

エギエディルズは無言で考えていた。これは一体何を意味しているのだろうかと。
唯一無二の妻とふたりきり、そうふたりきり、極めて重要であるので更にもう一度繰り返すのだが、誰にも邪魔されず、文句を言われることもな……いことはないのだが、その文句に対して真っ向から反論できるだけの事実と自信を手に入れたために胸を張ってふたりきり! で暮らすランセント家別邸、その中庭のテラスにて。テーブルの上にわさっと飾られている酢漿草を前にして、エギエディルズは自他共に認める賢さを誇る頭で大真面目に考えた。
ここでもまた繰り返そう。これは一体何を意味しているのだろう。
酢漿草。生薬として使える有能な植物だが、その繁殖力の強さゆえに雑草としても扱われてしまう不遇な生まれの植物、それが一般的な酢漿草に対する共通認識であるはずだ。
だがエギエディルズにとっては、そんな単純な認識ばかりではない。もっと特別で、かけがえのない意味を持つ植物だ。
幼かったあの日、当時はまだただの幼馴染という間柄でしかなかった妻と薬草園でたまたま愛でたのがはじまり。そして悔やんでも悔やみきれない事件を経て入学した魔法学院で過ごしていたころに、婚約者となってくれた妻から刺繍という形で贈られたもの。そうして決して破らないと誓った約束の証。それがエギエディルズにとっての酢漿草だった。
とはいえ、道端でひっそりと咲いている姿に、いちいち反応することはない。ふとした拍子に目に飛び込んできたとき、ああ、と、改めて約束を噛み締める程度でしかない。
だが、今目の前にある酢漿草は、そんなささやかなものではない。
どん! と。なんなら、どどん!! と。それはもう確かな存在感を持った大きな花束となって、テラスのテーブルの上に飾られているのである。
誰がこんな真似をしたか、など、考えるまでもない。エギエディルズの妻――フィリミナ・フォン・ランセントそのひとであるに違いない。
彼女はこの屋敷のあちこちに花を飾ることを好むから、別段驚くことでもないのかもしれない。だが、よりにもよって酢漿草を――自分達にとってはいくら特別であっても、はたから見れば雑草でしかない地味なこの花を、わざわざこんな風に飾る、その真意とは。

「……」

手を伸ばし、そっと小さな黄色い花弁に触れる。陽の光を浴びながら、精一杯けなげに咲き誇る姿に、じんと胸の奥が熱くなった。
フィリミナが酢漿草をわざわざこんな風に飾った真意は相変わらず皆目見当もつかないが、なるほど。これは、悪くない。
花を愛でる心なんてものを自分が持ち合わせているなんて、昔は知らなかった。知ろうともしなかった。教えてくれたのは、フィリミナだ。

「あら、エディ? 立ちっぱなしでどうしまして?」

カラカラと軽く車輪が回る音と共に、穏やかな声が耳朶を打つ。振り返れば、かつて幼馴染となり、婚約を受け入れてくれた上、結婚してようやく妻となってくれた存在、すなわちフィリミナがそこにいた。
彼女が押している小型のワゴンの上には、二人分のティーセットと、手製の焼き菓子が並んでいる。「いいお天気ですからテラスでお茶にしましょう」と微笑んだ彼女の、その言葉通りの準備だった。
いいや、そればかりではなく。

「……なんだ、その大量の酢漿草は」

ワゴンに乗っているのは確かに茶会のための準備のあれそれであったが、それからもう一つ。わさわさわさっと、大量の酢漿草もまた山と乗っていた。
その量と言ったら、ティーセットとどちらがメインなのかと訊きたくなるほどの量であり、実際にエギエディルズは声に出して問わずにはいられなかった。

「……やっぱり、気になります?」

エギエディルズのその問いかけに、フィリミナの表情が、いかにも困ったと言いたげな、それでいてどことなく気恥ずかしげな雰囲気を混じえた苦笑へと変わる。

「ええと、その……なんと言いますか」
「だからなんだ」
「もう、急かさないでくださいまし。実は今朝、市場に向かう道すがら、お庭のお掃除をされているご婦人と出会いまして」
「ほう」

朝早くに市場に出かけるのは、フィリミナにとってはほぼほぼ日課だ。
連れの一人も付けずに市井に出るその行為は、それなり以上の身分ある貴族の夫人にあるまじきそれだが、いくら周囲が咎めても、「だってわたくしですよ?」と本人にはちっとも伝わらない。エギエディルズが「お前だからこそだ」と頭を抱えようが彼女にはやはり伝わらないし、ならばせめて一緒にと申し出ても、「あなたと一緒の方が目立ってしまうのですが……」と眉尻を下げられてはもうぐうの音も出なかった。自分の〝純黒〟と恐れられる黒髪についてはいい加減割り切っていたつもりだが、その時ばかりはこの髪が憎たらしかった。
フィリミナに言わせれば「髪ばかりの問題ではなくて……エディ、あなた、鏡をご覧になってくださいな」とのことだが、顔がなんだ。自慢ではないが無駄に整った顔である。確かに多少は目立つかもしれないが、それでよりフィリミナに集ろうとする虫どもに対する牽制になるのならば御の字ではないか。
と、話が大いにずれた。何の話だったか。
ああ、そうだ。市場に行く道すがらに、庭の掃除に励む女に会ったと、そういう話だったか。
エギエディルズが視線で先を促せば、フィリミナは「それでですね」と言い置いてから、うろ、うろ、と、なんとも気まずそうに視線をさまよわせた。

「どうした?」
「いえ、その、あのですね」

だから何と申しますか……と、なんとも要領を得ない様子である。
エギエディルズは、ふむ、とひとつ頷いた。そして一歩、大きく踏み出す。突然間近になった夫の姿に目を瞬かせる妻の、ワゴンの押し手に添えられたその手を、エギエディルズはうやうやしく持ち上げる。

「エディ? どうし……っ!?」

そのままその爪の先を自らの唇に寄せてやれば、フィリミナは大きく息を呑んだ。そうして見る見るうちに朱に染まっていく顔色の、その変化に、たとえようもない、なんとも言い難い、きっとフィリミナならば〝とっても素敵〟な気持ちになりながら、彼女の手を持ち上げたままエギエディルズは小首を傾げてみせた。

「俺には言えないことか?」

わざと切なげに睫毛を伏せ、その下に隠れる朝焼け色の瞳をこれみよがしに潤ませてみせれば、「うぐっ!」とどこからか奇妙な悲鳴が上がった。言うまでもなくフィリミナである。ふるふるというかすかな震えが、持ち上げた手から伝わってくる。

「ずるいですわエディ!」
「なんのことだ?」
「そ、そういう、そういうところです……!」

そしてエギエディルズは、自身が完璧な勝利を収めたことを確信した。
真っ赤な顔で、エギエディルズに負けず劣らず潤んだ瞳――ただしこちらはわざとではなく確かに感情からくる生理的なもの――で見上げてくる妻に、またしても〝とっても素敵〟な気持ちになりつつ笑みを深めると、彼女は気を取り直すようにそれは大きな深呼吸を三度ほど繰り返し、そしてようやく「酢漿草です」と短く呟き、拗ねたように唇を尖らせてそっぽを向いてしまった。
酢漿草。
ふむ? とエギエディルズはその視線を、テーブルの上とワゴンの上に鎮座する酢漿草の山に滑らせた。

「これらの酢漿草のことか?」
「はい。お庭で大繁殖とのことで、すべて駆除してしまうとご婦人は仰いまして。それで……」
「……それで、引き受けてきたと?」
「…………はい」

相変わらずそっぽを向いている妻の横顔は赤い。そのうつくしい色が、彼女がどうして駆除されるさだめにあった雑草ごときをわざわざ引き取り、その上こうして飾りつけるまでに至ったのかを教えてくれていた。
ぐ、と。エギエディルズの喉が奇妙な音を立てた。まるで先程のフィリミナのようだ。
彼女のようにあからさまな悲鳴にはならなかったため、幸いなことに気付かれなかったが、これでフィリミナが目の前にいなかったら、エギエディルズは間違いなく両手で顔を覆ってしまっていたことだろう。というか、実際に耐えきれなくなってしまい、エギエディルズは持ち上げていたフィリミナの手を解放して、そのまま自らの口を覆った。

ああ、ああ、ああ! なんて、なんて――……!

「もう、エディ! 嫌ですわ、あなたまで照れないでくださいな! わ、わたくし、もっと恥ずかしくなってしまうではないですか!」
「……別に照れてなど」
「うそ! お顔、真っ赤になっていらっしゃいますよ」
「だとしたらお互い様だろう」
「~~っ!」

フィリミナが、今度こそ言葉にならない悲鳴を上げて、エギエディルズの代わりのように両手で自らの顔を覆った。その指の間から覗く顔色は、やはりどうしようもなく愛おしくなるばかりの赤。
ああ、彼女もなのだ。彼女も――フィリミナもまた、エギエディルズと同じように、酢漿草にかけた約束に想いを馳せてくれだのだ。だからこそ駆除されるはずだったというさだめを見過ごせず、こうして引き取って飾るなんて真似までしてくれた。
恥ずかしさのあまりぷりぷりと怒る素振りまで見せてくれるその姿は、普段穏やかで年齢に見合わない落ち着きをまとうそれからは、実に程遠いものだ。こんな姿を見せてくれるのは、相手が自分だからなのだと思うと、これまた大変〝とっても素敵〟極まりない。
ああ、片手で隠した手の下で、口元がしまりなく緩むのが解る。眉目秀麗、冷徹非情と影に日向にささやかれるこの自分をこんな姿にする魔法が使えるのは、後にも先にもフィリミナだけだ。

「だ、だって、見つけてしまったら放っておけなくて。ご婦人にもおかしな顔をされてしまいましたけど、でも、あなたとの約束を思い出してしまえばもう持って帰ることしかできなかったんです。おかげでほどんどお買い物なんてできなかったですし、屋敷中に飾っても余ってしまいましたけど、でも、でも」

だから、と、顔を真っ赤にしてあれこれ言い募るフィリミナの姿をとくと堪能しつつ、なるほど、と改めてエギエディルズは納得した。
エギエディルズにとって久々のまともな休日だというのに、薄情にもいつも通りに一人で市場に出かけていったフィリミナが、帰ってくるなりぱたぱたと忙しなく屋敷中を駆け回っていたのは、酢漿草を飾るためだったらしい。
道理で屋敷の中に、石鹸を泡立てたような清涼な香りが漂っているわけだ。

「ですからその、わたくし達も結婚してからしばらく経ちますし、色々落ち着いて来ましたし、そろそろ初心に帰って……って、いやだわ、わたくし、何を言っているのかしら?」

顔のほてりをごまかすように、フィリミナはひらひらと自らの手で顔を何度もあおぐ。その蝶のように舞う軽やかな手の動きについ目を奪われてしまうエギエディルズに対し、フィリミナはあいもかわらず顔をうつくしい赤に染めたままだ。
やがて、そのかんばせに、ふふ、と恥ずかしげな、そして同時にそれ以上に愛しげな、大層嬉しげな微笑みが広がっていく。大輪の薔薇などではない、野に咲く名もなき小さな花がほころぶようなその笑みの、なんと美しいことか。
呼吸すら忘れて野花のごとき笑みに見入るエギエディルズに気付かずに、フィリミナは、とにかく、と前置いて、淡い色に色付く唇で言葉を紡ぐ。

「こちらの花を手に入れたのは偶然でしたけれど、でも、運命だったのかも知れませんね。だってわたくし、ずっと前からもう一度、あなたにこの花を……酢漿草を、渡したかったのです。わたくしを唯一無二の妻だと仰ってくださった、エディ。他ならぬ、あなたに」
「……!」

その言葉に、忘れていた呼吸を思い出した。
脳裏に蘇るのは、先達てフィリミナが夢を媒介にした呪いをかけられた一件だ。
何も気付かずにうかれるばかりだった自分の影で、人知れず苦しんでいたのがフィリミナだ。犯人は無事捕まったものの、あの件において最も罪深きは自分であるという自覚がエギエディルズにはしかとある。それなのにフィリミナは、そんなエギエディルズを赦してくれた。
いいや、赦す、と言うのは語弊がある。だって最初からフィリミナは、エギエディルズに対して怒っても嘆いてもいなかったのだから。ただ自身の無力を悔やみ、自身の立場を悲しんでいただけだ。
だからこそ余計にエギエディルズはそんなフィリミナに気付かなくてはならなかったのに、気付いた時にはすべてが遅かった。あのとき感じた後悔は、未だこの胸にある。
その後催された、クレメンティーネ姫による夜会にて、ようやくはっきりとフィリミナの存在とその立場を公にできたものの、結局それも、罪滅ぼしと言えば聞こえはいい、ただの自己満足でしかないように思う。
それなのにフィリミナは、それでいいのだと。お前しかいないのだと必死になって縋ることしかできない自分の腕の中で、大粒の涙を流して受け入れてくれた。
どれだけエギエディルズが守りたいと思っても、最後に守られるのは、そして救われるのは、いつだってエギエディルズの方ばかりだ。それでも。

「あなたと共に生きることを、もう一度、あなたに約束したかったのですから」

それでもフィリミナは、それでいいのだと笑うのだ。それがいいのだと断じるのだ。
酢漿草の花言葉は、『あなたとともに生きる』であるという。幼かったあの日、フィリミナが教えてくれなかった花言葉だ。
当時、養父に花言葉の本を貸してくれと頼んだところ、彼は至極楽しそうに「もちろんだとも」と分厚い花言葉辞典を貸してくれた。
花言葉は花に込められたまじないだ。魔法を行使する上で、花を媒介にする場合、その花言葉は大きな意味を持つ。将来的に役に立つから、なんて言うのは言い訳で、あの時フィリミナが言おうとしなかった酢漿草の花言葉をいちばんに調べた。
そうして知った誓いの言葉に、今よりももっと感情の機微が疎かった当時ですら、ざわりと心が波立ったことを覚えている。
フィリミナがどういう意味で自分にこの花言葉を教えてくれなかったのかは解らなかった。もっと親しくなったら、教えてくれるのだろうか。自分にこの酢漿草のまじないをかけてくれるのだろうか。そんな淡い期待を抱いた。そしてその期待を粉々に打ち砕いたのは、他ならぬエギエディルズ自身だった。
焔の高位精霊の召喚、その果ての暴走の末に、精霊に厭われる傷を負ったフィリミナに婚約を求めたのは、今となってはつくづく卑怯な真似であったと思う。本当にフィリミナのことを想うのならば、解放してやるべきだった。
けれど差し出された手を放すことなどどうしてもできず、魔法学院に入学し、そしてエギエディルズは、フィリミナから酢漿草の刺繍がほどこされたハンカチを受け取った。

――覚えていますか?

その一言が、どれだけ嬉しかったことか。
あれ以来、酢漿草はエギエディルズにとって、とっておきの特別として胸の内で咲き誇っている。そして、きっと、フィリミナの中でも。

「ふふ、とは言え、流石にもらいすぎたことは否めませんね。もう飾るところがありませんの。この余った分、どうしようかしら……あら?」

ワゴンの上で山になっている酢漿草を見下ろして苦笑するフィリミナの、その手を再び取って引き寄せる。突然重なった手に、ぱちぱちとフィリミナの瞳が瞬いた。
その一瞬の隙を見計らい、エギエディルズは、今までずっと下ろしていたもう一方の手を持ち上げてみせる。
ちょうど視線の高さまで持ち上げられた『それ』を見たフィリミナの瞳が、今度は大きく見開かれた。

「まあ、雛菊……!」

驚きに満ちた声に、してやったりとエギエディルズは唇の端をつりあげた。
口元に綺麗な三日月を描いて笑うエギエディルズの顔と、その手にある二輪の雛菊に、フィリミナはどういうことかと目を白黒させている。
構わずにエギエディルズは続けた。

「偶然咲いているのを見つけてな。お前に見せようと思ったんだが……まさかお前も酢漿草を用意しているとは思わなかったぞ」

フィリミナが市場に出かけている間、完全に拗ねていたエギエディルズは、気晴らしにと中庭を散歩していた。そんな時、片隅で偶然にも見つけたのが、この二輪の雛菊だった。無碍に手折るのは、少々気が咎めるものがあったが、このまま誰にも見つからずに枯れるのを待つよりはマシだろうと言い訳して、手折ったもの。
雛菊。それは酢漿草と同様に、エギエディルズとフィリミナにとって特別な意味を持つ花。かつてエギエディルズが、フィリミナに対して、酢漿草のハンカチへのお返しとして贈った花である。
その花言葉は、『あなたと同じ気持ちです』。
驚きに固まっているフィリミナをまっすぐに見つめながら、そのシニヨンに結われた髪に、二輪の雛菊をそっと差し入れる。白い花弁が可憐な雛菊は、まるではじめからそうなるべきであると定められていたかのように、フィリミナの髪を美しく飾った。

「俺もお前に、何度でも約束しよう。俺の気持ちは、必ずお前が酢漿草に込めた誓いと同じであると。雛菊に誓いを込めて、決して違えることはないと」

それは、決して破られることはない約束だ。
フィリミナの見開かれていた瞳に、薄く透明な膜が張る。そのままぽろりと一筋の透明な筋を書いて彼女の頬を伝い落ちていく雫に、エギエディルズはそっと唇を寄せた。とても塩辛く、とても甘かった。
そうしてそのまま、フィリミナと重ねた手とは逆の手で、すいと宙に文字を書く。
紡がれた旧い魔法言語に従って、ワゴンの上の酢漿草がふわりと、まるで小鳥のように舞い上がった。
そのままエギエディルズとフィリミナの周りを、地に落ちることもなく舞い続ける酢漿草に、フィリミナの表情が花よりもまぶしく輝く。

「なんて綺麗なのかしら」
「ああ、そうだな」

エギエディルズの視線の先で、瞳を輝かせながら宙に舞う酢漿草を愛でるフィリミナは、酢漿草よりも、雛菊よりも、この世界のどんな存在よりも、何よりも美しい。
そうしてじっと唯一無二の妻を見つめ続ける夫の視線が何を捉えているのか気付いたフィリミナが、また顔を赤く染めることになったとは、最早言うまでもないことだろう。

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