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2022年クリスマス企画

X(旧Twitter)にてときどき呟く『魔法使いの婚約者』現代パロディ略して現パロ(仮)ですが、2022年のクリスマスにひたすらエディの動向を本人視点で呟いておりました。そのまとめです。

***

完全に寝過ごした。ホワイトクリスマスイブだ。
“彼女”と過ごしたいと思っていて、なんとか誘おうとしたのに、結局今日になってしまった。
彼女、もといフィリミナは、今日は実家の古書店の手伝いだという。クリスマスプレゼントの駆け込み客が多いのだとか。
今頃開店準備に追われているのだろう。今までイベント事なんて気に求めていなかったのに。フィリミナのおかげで、彼女のせいで、こんなにも自分はあれこれと策を練っては失敗を繰り返している。
雪が降り積もる。まるでこの心のように、なんて、馬鹿らしいことを考えて溜息を吐いた。

今年のクリスマスは土日だ。勤め先である大学に行っても気が紛れる案件はない。
毎年この時期は学生や教職員に「二人きりで」などと声をかけられるのが常で、それがわずらわしくてならなかった。
けれど、いざ自分がその声をかける側になってみると、彼女達には悪いことをしたかもしれないと思えてくる。
ベッドの上で往生際悪く寝そべりながら、新たに報じられた論文をタブレットで見ていても何一つ心は晴れない。自分の不甲斐なさ、情けなさを噛み締めるばかりだ。
……仕方ない、ブランチでも作るか。あるいは、近くのカフェにでも出かけるか。
どちらにしろいい加減起きなくては。

万年新婚夫婦と名高い養父母の邪魔をするのも申し訳なく始めた一人暮らしだが、自分のことをそれはかわいがってくれる二人が今年も「帰ってくるなら絶対に連絡しなさい、待っているよ」「帰ってこなくてもいいけどクリスマスプレゼント送ったから使いなさいね!」とクリスマスプレゼントを郵送で贈ってくれた。今年はカシミヤのストールだった。
それを巻いて出かけた先は大学近くのチェーンのカフェだ。ベンティサイズのブラックコーヒーを頼んで、暖かな店内ではなく屋根のあるテラス席に陣取った。
紙のカップに書かれたメリークリスマスイブの文字、そして店員の連絡先と思われる数字の羅列を見なかったことにしてぼんやりと道を眺める。
時折向けられる視線やかけられる誘いの声を無視しながら思うのは、結局フィリミナのことだった。
今から彼女がいる古書店を覗きに行こうか。客として行くのは別に構わないだろう。けれどなりたいのは客ではなくて、とはいえ客としてしか理由が見つからない。
本日何度目かも知れない溜息を吐き出した、そのとき。

「いいご身分ね、エギエディルズ」
「クレメンティーネか」

数学者として自分のスポンサーの一人娘である女子高生が、気付けばそこにいた。駆け寄ってきたらしい彼女の向こうには、彼女の家庭教師であり、本人達が納得済みの婚約者である青年がこちらを見守っている。

「なんだ。お前が未成年のうちはお互いに教師と生徒以上の接触はなしと決めていたんじゃないのか?」
「クリスマスだもの、デートくらいは許されるでしょう? あたくしのことより、自分のことを心配なさいな。どうせ想い人を誘うこともできなかったくせに」
「…………」

そう言われてはぐうの音も出ない。
コーヒーを口に運んで視線を逸らせば、ほら見なさい、とクレメンティーネは呆れたように笑った。

「エギエディルズ」
「なんだ」
「今日はクリスマスイブよ。そして明日はクリスマス」
「それがどうした」
「こんな日くらいは、自分で奇跡を起こしてみせなさいな」

それじゃあね、と言い残し、軽やかな足取りでクレメンティーネは婚約者の元へ駆けて行った。
当たり前のように腕を組む二人は、本人の言う通り、今日明日だけ許される奇跡を起こしたのだろう。娘を溺愛するあの父親からよくデートの機会をもぎ取ったものだ。

「奇跡、か」

それができたらこんなに悩みなどしないのに、と、冷めつつあるコーヒーを飲み干した。

クリスマスの奇跡なんて信じてはいない。そもそも今日はイブだ。まだクリスマス当日ではなく、その前日だろう。そんなことは解っている。
わざわざ雪がちらつく寒空の下にいつまでもいる必要はないということも痛いほど解っていながら、なんとなくひとりきりの部屋に帰る気にはならなくて、大学近隣の広い公園で開かれているクリスマスマーケットに足を伸ばした。
家族連れ、恋人同士、友人同士と、誰もがクリスマスソングが流れる中を出店をひやかしながら楽しそうに歩いている。一人きりなのは自分だけな気がして、居心地の悪さすら覚えた。
そんなこちらの心境を察知してか、女性の集まりに声をかけられることがいつもにも増して多い。五回目あたりで数えるのをやめた。
先程のカフェでは結局コーヒーしか飲まず、腹に何も入れていない。適当に何か見繕ってそのまま直帰コースが妥当だろうか。
やはり慣れないことはするものではないな、と思いながら、酒のつまみになりそうなソーセージの詰め合わせと、自宅で作れるホットワインのセットをらしくもなくテイクアウトした。
おまけだと言って店員が渡してきたのは、金色のベルのオーナメント。この鈴の音が幸運を呼んでくれるらしい。
なるほど馬鹿馬鹿しい、なんて誰が聞いても八つ当たりだと解る理不尽極まりない感想を抱いて公園を後にしようとすると、「あっ!」と聞き慣れた声が聞こえてきた。
反射的に足を止めて振り返れば、満面の笑顔で学生時代から強引に自分に絡んでくる付き合いだけは長い自称友人が駆け寄ってくるところだった。

「エギエディルズ! 偶然だね」
「……そうだな」
「エギエディルズもデート? 例の司書さんとやっと……………………ごめんごめんごめんなさいほんとごめん失言だったごめんこわいこわいこわいこわい」

笑顔でこちらの地雷を踏み抜いてくれた自称友人は何故か真っ青になって謝ってきた。
それにしても、『も』だと? その答え合わせのために自称友人、もといユリファレットの背後を見遣るとこちらを戦々恐々とした様子で遠目に見守っている同年代の女性がいる。
ああ、そういえば前に見せられた写真に写っていた、ユリファレットの幼馴染の。
そう納得して一応会釈すると、彼女は慌てたように深く頭を下げてきた。そんな自分達のやりとりにハッとした様子の自称友人は、「エギエディルズ」と神妙な顔つきになった。
いつもふにゃふにゃ締まりのない顔つきのくせに、と無言で先を促す。自称友人は大真面目に続けた。

「今からでも遅くないよ!!」
「……それができたら苦労してない」
「うんまあそう言うとは思ったけどさ。でもエギエディルズ、こういう時はプライドなんて無駄だよ。マリエがクリスマスにかこつけた合コン行くって聞いてからしか動けなかった俺が言うのも何だけどね。せめてメリークリスマスイブって連絡くらい……」
「…………連絡先も知らないんだが?」
「じゃあ直接会いに行けば?」
「……」

簡単に言ってくれるものだ。これだから無自覚の初恋を成就させたばかりの色ボケは。
ああもう、自分もこいつのようにフィリミナと幼馴染だったらよかったのに。
ついじろりとにらみ付けると、ユリファレットは困ったように笑って、そうしてポケットから何かを取り出してこちらの手に握らせてきた。
握らされたそれは、先ほど自分ももらったベルのオーナメントだ。

「俺の分の幸運もあげるよ。がんばって」

そう言うだけ言って、ユリファレットは幼馴染であり晴れて恋人となった女性の元へ戻って行った。
仲良く手を繋いで去って行く後ろ姿と、手の中のオーナメントを見比べて、ぽつりと呟く。

「どいつもこいつも勝手なことを」

今頃フィリミナはどうしているだろうか。
クリスマスなんてどうでもいいと思っていた頃に戻りたいと思ってしまう自分が、あまりにも滑稽だった。

結局帰宅した。
冷えた部屋にひとりきり、慣れた空間のはずがなぜか初めて足を踏み入れる場所のようで不思議だった。
とりあえずエアコンを入れて、ソーセージをゆがくついでにワインをあたためて、あれこれスパイスを山ほど入れた。らしくもなくクリスマスらしい遅めの昼食だ。
マグカップになみなみと注いだホットワインと、肉汁たっぷりのソーセージ。
図書館で最後に会った時、フィリミナが言っていた。「我が家は皆、イベント好きというかお祭好きというか……だからこそクリスマスも家族で過ごしてばかりでして。弟もそろそろ恋人を連れてきてくれればいいのですけれど」と。弟ばかりではなく、フィリミナ自身だって恋人を連れてくるのを家族に待たれているのではないだろうか、と反射的に思ったものだ。
その恋人が自分であったらどれだけ、と、そこまで思って、けれどそこまで思っても口には出せずに、家族とのクリスマスを楽しみにしている彼女に「そうか」と頷くことしかできなかった。
彼女と幼馴染だったら、と、クリスマスマーケットで会った自称友人とその恋人を見た時に思ったことを思い出す。
もし幼馴染だったら、当たり前のようにフィリミナとクリスマスを過ごせたのだろうか。
けれどなぜだろう、幼馴染だったとしたら、最初から最後まで異性として意識してもらえない気がしてならない。
あのセルヴェスとかいう男と彼女の関係を見ていると特にそう思うのだ。
あれだけの仲の良さを羨ましいと思えども、あの関係に落ち着きたいのかと問われれば答えは否なのだから。
ホットワインのアルコール度数はさしたるものではないはずなのに、どんどん酔いが回っていく。ソーセージを食べ終えた満腹感も手伝って、まぶたが重くなってくる。そのまま、抗うこともできずに、意識が飛んだ。

ゆめを、みている。

ここではない『剣と魔法の世界』にいる自分は世界中から厭われていた。
どんな才能を持ち合わせていても意味をなさない、厭われるべき純黒であると。
それに疑問を覚えることすらなく存在するだけだった自分の前に現れたのが、フィリミナだった。
驚いたことに彼女と自分は幼馴染と呼べる関係だった。計り知れない魔力を持つ自分に分け隔てなく当たり前のように笑いかけてくれる彼女に、やはり当たり前のように自分は恋に、落ちて。

そして、ゆるされざる罪を、犯した。
彼女に消えない傷を負わせて、それから。

それから。

――――――――――そういう、夢だった。

3.14159 26535 89793 23846 26433
83279 50288 41971 69399 37510
58209 74944 59230 78164 06286
20899 86280 34825 34211 70679
82148 08651 32823 06647 09384
46095 50582 23172 53594 08128
48111 74502 84102 70193 85211
05559 64462 29489 54930 38196
44288…

……ゆめを、見た気がする。懐かしい過去のような、あるいは遠い未来のような、不思議な夢を。
それ以上は何一つ覚えていない。なんとも奇妙な感覚だけが残っている。
そうして最後は馴染み深い円周率を数えて、目が覚めた。
いくらエアコンを入れて、ホットワインを飲んでいたとしても、そのままテーブルで寝ていたら身体は冷えるし固まってしまう。らしくもない失態にまた溜息がこぼれた。

「……今は……何時だ?」

どれほど寝ていたのか確認のためにスマホを見れば、驚いたことに一晩経っていた。
さんざん朝も寝過ごしたのに、この上さらに惰眠を貪ってしまったらしい。
ならば今日がクリスマス当日ということか。奇跡も何もないな、とやはり他人事のように思って、とりあえず風呂に入ることにする。
シャワーだけで済ませるには、身体が冷えすぎていた。それから、心も。
クリスマスだからだとか、そんなもの関係なく、ただあいたい、なんて。
そんなことを言う権利もない自分が悔しかった。
風呂に浸かりながら気休めにスマホで最近出た数学系雑誌を眺めていたら、そこでようやくLINEにいくつもメッセージが届いていたことに気が付いた。自分のこの連絡先を知っている相手は数えるほどにもいない。
放置しておく訳にもいかず、一つずつ開いていく。
ユリファレットと同じく自称友人であるアルフレムからのメッセージが多くを占めていた。どうやら飲み会に来いということらしかったが、あいにくもう一晩経っている。
こちらからの返信がまったくないことに最終的に心配になったらしく、最後のメッセージは「生きてるか?」の一言。巨大なお世話だ。
とはいえこれ以上放置しておくとまた後がめんどくさそうなので「問題ない」と返信しておく。
あとは異母弟からの「メリークリスマス、兄さん!」「年末年始はこちらに来ませんか?」という毎年恒例の誘い文句。
お前大丈夫なのかと一周回って呆れたくなるほど純粋に自分のことを慕ってくる異母弟にこれまた例年と同じく「そちらはそちらで楽しめ」と返信し、あとはもう面倒になって見なかったことにする。
誰も彼もクリスマスに浮かれて結構なことだ。この連絡の中に、フィリミナからの言葉もあれば、それだけで浮かれられたのだろう。
興味一つ持たれていないどころかなんとなく警戒されている節がるせいか、いまだに連絡先も知らないこの体たらく。
来年の目標にするにはあまりにも情けなく、けれど切実すぎる問題だ。
奇跡くらい自分で。プライドなんて無駄。自称友人達の言葉がよみがえる。

――ランセント先生。

そう困ったように笑う彼女の顔も、ありありと、この胸に。

風呂から出てすぐにマンションを後にした。なりふり構わない、ただの勢いだった。
向かう先はもちろんアディナ古書店だ。会いたいから会いに行くだけだと自分に言い聞かせて。
街中で流れる浮かれたクリスマスソングのせいだろうか、いつもよりも速足になる。
会いたい。

…………………………誰だ、あれは。

アディナ古書店に程近い、古くからある純喫茶。
フィリミナ本人がよく行くのだと語っていたその店。アディナ古書店に直接訪れるのを、直前になって怖気付いて入ったら、窓際の席に、彼女がいた。しかも、自分の知らない男とともに。
歳の頃は十代後半と思われる、凛と整った見目の男だ。少年と呼ぶべき年下の存在に、自分でも驚くほど胸がざわついた。
フィリミナは、実家を手伝っているのではなかったのか。クリスマスに、ともに二人きりで過ごす相手がいたのか。
セルヴェスというあの自分と互いにいけ好かなく思っているフィリミナの“友人”ではなく、“恋人”として?
まさか、と思いたくても、そうと断ずるには二人の間に流れる空気がやたらと親密だった。
会話を交わすでもなく、フィリミナは本を読んでおり、少年は何やら懸命に書き物をしている。
わざわざ会話をしなくても、そこに当たり前のようにあれる関係らしい。自分はいつも必死になって会話の糸口を探しているのに。
気付けば店員のすすめも聞こえないほどに二人を見つめていた。さすがにその視線に気付いたのだろう、少年が顔を上げてこちらを見た。
星のようにきらめく鮮やかな黄色の瞳。驚きにそれが瞠られて、その反応に気付いたのか、フィリミナの視線もまたこちらへと向けられる。
まあ、とその唇が震えた。

「ランセント先生? 偶然ですこと」

狭い店内に響くその声。立ち竦んだままでいると、老齢の店主夫妻が何かを察したらしく、よければ相席で、と続けてきた。願ってもない提案だった。
けれどそこまで図々しくもなれなくてためらう。
フィリミナではなく少年の方が、わざわざ席を詰めてくれた。

「ど、どうぞ」

緊張に強張る声だった。フィリミナはそんな少年を気遣わしげに見やり、やがて彼女もまた控えめにこちらに笑いかけてきた。

「どうぞ、お邪魔でなかったら」
「……それは、俺の台詞だろう」

あれだけ見たかった笑顔の前に、やはり当たり前のように鼓動が跳ねた。けれどこの口は反射的にそう言い返していて、フィリミナは苦笑して、少年は居心地が悪そうに身動ぐ。
最悪だ。猛省してもどうしようもない。
そんな自分を見かねてか、店主夫妻が狭い店だからとなおも相席をすすめてくれたおかげで、少年の隣に腰を下ろすことに成功する。
少年の前にはびっしりと数列が書かれたノートと、分厚い参考書が並んでいた。これは、と目が瞬く。

「ランセント先生、わたくしの遠縁のエストレージャです。昨夜我が家のクリスマスパーティに来ていたのですが、今年受験生なので勉強も、ということでわたくしとこちらに……あら」

遠縁の、という言葉にどうしようもなく安堵していたら、フィリミナのスマホが鳴り響いた。電話の着信だ。
こちらを心配そうに見比べてから、彼女は「申し訳ありません、少し失礼しますね」と席を立って店から出ていった。
残されたのは自分と、エストレージャと呼ばれた少年だ。
隣を見遣ると、緊張に強張った顔で少年はこちらを見つめていた。

「あ、あの……」
「俺のことは気にせず続けろ」

無茶振りをしている自覚はあった。けれど少年は素直な性質らしく、大人しく再び参考書に向き直り、ノートにペンを滑らせ始める。
けれどほどなくしてその動きは止まった。どうやら行き詰まったらしい。
少年が向き合っている問題を見て、つい手を伸ばしてしまった。

「この数式に、この方程式を代入」
「え、あ……あっ」
「それから、こちら。xじゃない。 yだ」
「あ…………」

普段学生に教えているせいか、同じように示してしまった。
少年の顔が輝いて、スラスラとまたペンが動く。そして少年は、こちらにきらきらときらつく瞳をむけた。

「ありがとうございます」
「大したことじゃない」
「でも、俺は嬉しいから。ランセント先生に教えてもらえたなんて……」
「……俺を知っているのか?」
「…………あなたは有名だから」

まあそれはそうだ。
こちらが気分を害したとでも思ったのか、申し訳なさそうに頭を下げてくる少年に、溜息を吐く。びくりと肩を跳ねさせる少年に「いいから」と言葉を重ねて、ついでに気まぐれに他の間違いも指摘する。
少年は飲み込みがいい。とても。
打てば響くような素直さに、どの学生もこうあってくれたら楽だな、なんて思っていたら、不意に少年はこちらを見上げた。

「なんだ」
「ミナ姉さんのこと好きなんですか?」
「っ!!」

ミナ姉さん、という呼び名が誰を指すのか解らないほど鈍くはない。口に運んだ紅茶を噴きそうになった。
なぜ、と少年を見つめ返すと、彼は小さく笑って、「やっぱり」と頷いた。

「ミナ姉さんは手強いと思いますが、諦めないでくださいね」

姉さんはアレで押しに弱いですよ、と続ける少年から顔を背けると、ちょうどフィリミナが戻ってくるところだった。

「申し訳ありません、職場からで……。あらエージャ、どうしたの?」
「ランセント先生に教えてもらってたんだ。すごく解りやすくて助かってた」
「まあ! ……ありがとうございます、ランセント先生」
「…………いや」

素知らぬ顔ができているか、これ以上なく不安だった。隣の少年はくつくつと笑っている。
フィリミナはそんな彼の様子に安心したらしく、こちらへと再び視線を向けて軽く頭を下げてきた。
その笑顔の、今までにないやわらかさに、また鼓動が大きく跳ねた。

エストレージャ、という名前の少年は、気を利かせてくれたのか、「そろそろ帰るよ。ミナ姉さんはランセント先生とゆっくりしてて」と席を立った。
フィリミナは慌てたように自身も立ち上がろうとしたようだったが、エストレージャに「いいから」とだめ押しされたことで諦めたらしく、大人しく席に戻る。
少年は律儀に自分の分の代金を置いていこうとしたが、流石にそれは止めた。俺がまとめて出すから、と半ば無理矢理説き伏せて、それからフィリミナと喫茶店の窓際の席で向かい合っている。

「……意外でしたわ」
「……何がだ?」

沈黙に耐えられなくなったのか、先に口を開いたのはフィリミナの方だった。二人きりの喫茶店、というシチュエーションに視線をさまよわせることしかできなかった中でようやくそちらを向くことが許された気がして彼女を見遣ると、フィリミナはどこかほっとしたように笑っていた。
やはり、今までになく柔らかな笑みだった。

「エージャです。あの子、人見知りする方なのに……ランセント先生にはすぐに心を許したようなんですもの。あの子に教えてあげてくださってありがとうございます。わたくしではもう大学受験の数学には太刀打ちできませんでしたから」
「大したことじゃない。エストレージャだったか。彼の飲み込みが早かっただけだ」

そっけない言い振りになってしまったことをすぐに後悔したけれど、フィリミナは気を害した様子もなくふふと小さく笑った。
その笑顔に、気付けば口を開いていた。

「また、教えてもいい」
「え?」
「家庭教師とまではいかないが。この時期は受験生にとって追い込みの時期だろう。俺の研究室に来られるなら、多少は力になれ……」
「よろしいのですか!?」
「っ!」

身を乗り出してくるフィリミナに、皆まで言い切る前にまず頷く。
目の前の彼女の顔がほころんだ。

「わたくしが勝手に決めていいことではございませんから、相談してからになりますが。ランセント先生に教えていただけるなら百人力ですわ。ええと、そうだわ、その、ランセント先生。よければわたくしと連絡先を交換していただいても……?」
「!!」

それは、願ってもない申し出だった。彼女の気が変わらないうちにとスマホを取り出せば、フィリミナもまたスマホをこちらへと向けてくる。
そうして交換した電話番号とLINEのID。フィリミナ・ヴィア・アディナの文字が、自分の連絡先欄の中に並んでいることにじわりと胸が熱くなる。

「改めてご連絡さしあげますね。あの、でも、ランセント先生、ご無理は決してなさらな……」
「無理じゃない。無理だったら最初から提案しない」
「……ありがとうございます」

そうして、喫茶店を後にすることになった。
既に日はとっぷりと沈んでいて、クリスマスの最後のイルミネーションがきらついている。
さっさと一人で帰ろうとするフィリミナに、送っていく、と譲らずに隣を歩く。
腕を組むことも手を繋ぐこともない。けれど、隣に彼女がいることがこんなにも嬉しい。
あっという間にその時間は過ぎ去って、アディナ古書店の前にたどり着く。

「ありがとうございました」
「いや。……その、これを」
「え? あら、かわいらしい」

このまま別れるのが惜しまれて、コートのポケットに入れっぱなしになってたベルのオーナメントを取り出して彼女に握らせる。

「…………メリークリスマス」
「まあ……ふふふ、そうですね。メリークリスマス、ランセント先生。それから、良いお年をお過ごしくださいませ」

チリン、とベルをわざと鳴らして笑った彼女はそうして家に入っていった。
それを見送って、自分もまた家路につく。
ポケットにはもう一つ、ベルのオーナメントが入っている。それから、フィリミナの連絡先が新たに加わったスマホも。
自然と足が浮き立つ中で、不意にそのスマホが鳴り響いた。
誰だ、と画面を覗き込んで息を呑む。
フィリミナ。すぐにメッセージを開くと、そこには『今日はありがとうございました。ごちそうさまでした』という文字とともに、大学に入っているカフェのWEBチケットが添えられていた。
今日の喫茶店の分と、オーナメントの分、ということなのだろう。貸し借りを避けるためだということくらい解っているが、それでも。

「……これは使えないな…………」

もったいなくて、と彼女にいつか伝えられたらいいのに。そう思いながら、感謝のメッセージをこちらからも返して、なんとなく上を見上げる。今年最後のクリスマスツリーのイルミネーションがきらついていた。
その輝かしい姿に、来年こそは、と誓いを新たにする。

なるほど、奇跡は自分で動いてこそ、のものらしい。

Merry Christmas!

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